関ヶ原の戦いで「家康にビビって寝返った」小早川秀秋、実はとんでもない“知将”だった…「やたら気弱で情けないダメ指揮官」の本性
歴史上の人物のなかには、皆が認める偉業を成し遂げたヒーローたちがいる一方で、悪名高い「嫌われ偉人」たちも存在しています。嫌われる理由は様々ですが、なかにはひどい誤解を受けていたり、功績もあるのに悪い側面ばかりが強調されていたりするケースも。偉人研究家・真山知幸氏の著書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、今回は小早川秀秋の素顔に迫ります。
小早川秀秋って「気弱で優柔不断な頼りない指揮官」じゃないの?
◆これまでの小早川秀秋(1582~1602)といえば… 「天下分け目の大決戦」とも呼ばれる、関ヶ原の戦い。徳川家康が率いる東軍か、石田三成(いしだみつなり)が率いる西軍か、いったいどちらが勝つのか…そんな、日本歴史上における緊迫した場面において、きわめて優柔不断な小早川秀秋は、どちらにつくべきか、グズグズとなやみ、いつまでも決断できなかった。合戦が始まってしばらくしてから、家康側につくことを決意。それも業(ごう)をにやした家康から「早く腹を決めんかい!」とばかりに、鉄砲を撃たれたことで、ようやく決断したのであった。ひ弱で情けないこと、この上ないダメな指揮官だった。
実は…冷静に戦況を見極めた若き知将だった
◆「やたら情けない小早川秀秋」は後世のフィクション発 1600年にくり広げられた「関ヶ原の戦い」は、天下を二分する大決戦になるはずが、ふたを開けてみれば、たったの数時間で決着がついてしまった。徳川家康が率いる東軍が、石田三成率いる西軍に、あっけなく勝利することになる。 だが、いざ戦が行われるまでは、どっちが勝ってもおかしくはなかった。そんな状況で東軍の勝利を決定づけたとされるのが、西軍に味方したはずの小早川秀秋による、東軍への寝返りである。 関ヶ原の戦いはマンガや小説、ドラマ、映画など、さまざまなジャンルの題材になっているが、「小早川がどのように寝返るのか」が見どころの一つであることは、共通している。 多くのパターンは、気弱な小早川秀秋がそのまま西軍にいるのか、寝返って東軍につくのかを決められず、家臣たちに「殿、ご決断を!」とせまられるなか、家康から鉄砲を撃ち込まれ、ビビッてようやく東軍につくことを決める…というものだ。 しかし、このエピソードは、関ヶ原の戦いから百年以上たってからできた軍記物、つまり「フィクション」に書かれたものが、もとになっている。実際の秀秋の行動は、全く違うものだった。 秀秋がやたらと頼りない人物として描かれるのは、当時まだ19歳の若さだったということもあるだろう。だが、関ヶ原の戦いに至るまでの秀秋の激動の人生を思えば、ずいぶんイメージは変わってくるはずだ。さて、どんな人物だったのだろうか。 ◆運命にほんろうされながらも幸運をつかむ 秀秋は、木下家定(きのしたいえさだ)の五男として生まれた。父の家定は、豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ。寧々)の兄にあたる。つまり、秀秋と秀吉は親戚関係にあたり、秀秋は3歳のときに秀吉の養子となった。 子どもができなかった秀吉にとって、このころの秀秋は唯一の養子であり、秀吉も妻の北政所も実の息子のようにかわいがった。 秀吉に実子の鶴松(つるまつ)が誕生したことで、後継者候補からは外れたものの、秀秋への愛情は変わらなかったようだ。秀吉は秀秋に丹波国亀山領(現在の京都府)を与えて、秀秋はわずか8歳にして大名となった。一見すると秀吉が甘やかしているように見えるが、秀秋の将来を真剣に考えていたのだろう。大名にする直前、秀秋に「学問にはげみなさい」「タカ狩りはしなくてよろしい」「着物をきちんと着なさい」などと、細かく生活指導をしている。 さらに、秀吉は自身の引退後には、財産を秀秋に分ける約束までしたという。というのも、秀吉の実子である鶴松はたった2才で死去。甥の秀次(ひでつぐ)が豊臣家の家督を継ぐことになったが、養子の秀秋にも何か残してあげたいと考えたようだ。 その後、秀秋は順調に出世して、13歳で中納言に任官する。当時の諸大名のなかで、中納言以上の官職は、大納言の家康だけだった。異例の大出世だといえるだろう。 そんなふうに秀吉に目をかけられた秀秋だったが、秀吉に再び実子の秀頼(ひでより)が生まれると、微妙な立場になってしまう。秀吉が隠居したあと、秀秋が財産を受け継ぐという話は立ち消えになり、将来の先行きが全く見えなくなってしまった。 ところがここで、豊臣政権の重鎮・小早川隆景(こばやかわたかかげ)から「養子にほしい」という話が持ち上がる。秀秋は小早川家の養子となり、しかも、隆景の宗家である毛利輝元(もうりてるもと)の養女を妻にむかえることになったのである。 やがて小早川隆景が隠居すると、秀秋は当主の座を継ぎ、現在の福岡県にあたる筑前・筑後(ちくぜん・ちくご)の30万石以上を預かる国主になった。状況が目まぐるしく変わるなか、秀秋は結果的に大大名の地位を得ることができたのだった。 ◆関ヶ原の戦いで迷ってなどいなかった 戦国時代において、自分を取り巻く状況は、ものすごいスピードで変わっていく。そのときどきの判断を間違えてはならない――。 秀秋は自身の人生経験から、そんなふうに考えたことだろう。関ヶ原の戦いにおいて、西軍から東軍に寝返ったのも、冷静に状況を考えた結果、東軍が勝利すると的確に予見したからにほかならない。 実はもともと、秀秋は家康に恩義を感じていた。というのも、小早川家の当主となったあと、晩年の秀吉によって、筑前・筑後から越前(えちぜん。現在の福井県) 12万石へと、理不尽にも半分以下の領地に変えられてしまう。しかし、途方にくれた秀秋をみかねた家康が働きかけたことで、再び筑前・筑後を取り戻すことができた。そんな経緯があったため、秀秋の気持ちは、東軍を率いる家康にもともとあったようだ。 秀秋が寝返った時期についても、近年はこれまでとは違った見方がなされている。関ヶ原合戦の結果報告がなされている史料(『堀文書』)によると、実際の秀秋は戦が始まり、東軍が西軍を攻撃すると、迷うことなくすぐに西軍を攻撃したという。優柔不断でも何でもなく、最も東軍にとって有利になる瞬間を見極めて寝返り、数時間での勝利を決定づけているのだ。 その活躍ぶりは周知のものだったらしい。関ヶ原の戦いのあと、秀秋は家康からこんな手紙を受け取っている。 「今回の関ヶ原で忠義を尽くしてくれたこと、とても感激してうれしく思います。取り交わした約束は必ず実行します。とても喜ばしいことです。これからは、息子の秀忠(ひでただ)と同じように考えて、ないがしろにすることはありません」 天下人となった家康をこれほど感激させた、若き知将・小早川秀秋。事前の約束通りに、現在の岡山県にあたる備前・美作(びぜん・みまさか)の2ヵ国55万石を与えられたが、その2年後の21歳で病死。激動の生涯に幕を閉じた。 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、名言収集家 1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言を研究するほか、名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。『10分で世界が広がる15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』など著作は60冊以上。