「必ず継げとは…」牛が人口の8倍 酪農の町から甲子園球児になった息子と親で進路を巡る交錯する思い
「林牧場」の3代目である、林徳人さんもそのひとりだ。3人兄妹の長男で、2000年にキャプテンを務めた別海野球部OBでもある林は、高校を卒業後に札幌の調理師専門学校に進み、中華料理店で働いた経歴がある。 目指していた料理人から家業の酪農を継いだ理由について、徳人さんが経緯を簡潔に言った。 「親が腰を痛そうにしている姿とかを見ると、『帰って継ぐしかないかな?』と思って」 自らがそうだったこともあり、徳人さんは長男の伸悟に牧場を継ぐことを強要していない。それどころか、「牧場のことは考えなくていい」とすら告げている。なにより父は、息子の自主性をどこまでも尊重しているのである。 伸悟は小学校までは野球をしていたが、進学した中西別中に野球部がなかったことから卓球部に入部した。3年になり野球部ができても入らず、別海に進みバスケットボール部を選んでも、息子の決断を否定することはなかった。 その伸悟が、高校1年の夏に「野球部に入りたい」と言ってきた。徳人さんが目を細める。 「中学で野球をやっていなかったし、高校野球はそんなに甘い世界じゃないんですけど、まあ、嬉しかったですよね」 伸悟が野球部への関心を高めたのは、当時のクラスメートでのちにキャプテンとなる中道航太郎ら野球部員から話を聞かされたからだった。「辛いけど、楽しい」。彼らの目の輝きが、伸悟の心を突き動かしたのである。 最初はバットにボールが当たらず、フライすらまともに捕球できないところからのスタートで、何より過酷だったのがランニングをはじめとする徹底したフィジカルトレーニングだった。「想像していたより5倍はきつかった」と伸悟は今も顔を歪めるが、野球部を辞めたいとは一度も思ったことがない。 「1日が本当に苦しいんですけど、それを乗り越えた達成感だったり、野球が上達している実感だったり。そういうのを感じられるのが楽しいし、毎日が充実しているんで」 伸悟は将来的に「アスリートを助けられるような仕事をしたい」と、スポーツインストラクターを目指している。酪農については、「今のところ継ぐ気はない」と言う。 前述したように、父は「それでいい」とすら思っている。徳人さんが胸の内を明かす。 「農家は不景気って言えば不景気だし。作業用の機械なんて毎年のように100万近くずつ上がってきているし、肥料も餌も何でも高くなっていますからね。息子に将来、余計な借金を背負わせたくないんで」 このような酪農の現実は、確かにある。しかし、それだけが理由ではないはずだ。徳人さんや母の美奈さんも含め、家族は伸悟に光を見たのだ。それこそが、甲子園である。 試合にこそ出場できなかったものの、高校野球の聖地の土を踏むその姿に、息子の進むべき道の答えが示されている――そう思い、信じてしまうのが親というものなのだ。 徳人さんの感情が、そのことを表していた。 「甲子園に息子がいるだけで感無量でしたよ。開会式で別海高校のユニフォームを着て行進しているだけで、泣きそうになりました」 普通の高校生たちが立つ夢舞台に、牛より人口が少ない「酪農の町」は胸を熱くした。 だから、涼太や伸悟が今は酪農を継がず「夢の続き」を追い求めようと、家族は後押し、心の中で安らぎを送るのである。 お前には、帰る場所があるんだぞ――と。 取材・文・写真:田口元義 1977年福島県生まれ。元高校球児(3年間補欠)。ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。『Number』(文芸春秋)を中心に、雑誌を中心に活動。著書に「負けて見ろ。聖光学院と斎藤智也の高校野球」(秀和システム)「9冠無敗能代工バスケットボール部 熱狂と憂鬱と」(集英社)などがある
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