<21世紀枠チカラわく>地域と一体、過疎の村から夢つかむ 宜野座 選抜高校野球 /2
新世紀最初のセンバツ大会(2001年、第73回)で創設された21世紀枠で甲子園に初出場した宜野座(沖縄)。ベスト4の快進撃で「旋風」を巻き起こした。沖縄県宜野座村にある唯一の高校で人口約5000人(当時)の過疎地だが、「甲子園に応援に行って村の半分の人がいなくなった」と言われたほど野球熱が高く、地域の人に見守られて戦った。あの熱狂から20年がたった。 【センバツ写真連載企画「花が咲いたら」】 2月上旬、晴天で心地よい暖かさ。同県浦添市内のグラウンドに安富勇人さん(37)の姿があった。「この人数だからできないではなく、やれることを考えていきましょう」。生徒にそう話す。あの春に主将だった安富さんは今、那覇工高の教諭として部員5人の野球部の監督をしている。 01年1月に開かれた初の21世紀枠を決める選考委員会。結果発表の時間帯に安富さんらは授業中だったが、中庭を挟んで教室の向かいにある校長室で校長が腕で丸印を作った。出場決定の知らせだった。次の授業は上の空で、鉛筆も持てなかった。村内では花火が上がり、学校には近所の人が大勢集まった。 00年秋の県大会は優勝し、九州地区大会で8強入り。21世紀枠の選考理由は、過疎地域にありながら地元村立中学出身の部員を中心に九州地区大会まで実力を高めた成果と、地域との一体感だった。進学先を決める際、就任間もない奥浜正監督(60)を慕った親たちは強豪私学の誘いを子どもの耳に入る前に断り、地元の野球少年たちが集まったという。試合や練習を見に来た村民は良くも悪くもみんなが「監督」で、酒のさかなは野球部の話題だった。 宜野座の選手たちが到着した那覇空港のロビーには歩く道ができないほどの人が出迎えた。「宜野座旋風」の反響は大きかったが、そこは高校生、奥浜さんはその後の試合で天狗(てんぐ)になり相手を見下した部員がいたら試合に使わなかった。一人一人が野球に真摯(しんし)に向き合い、その年、宜野座は夏の甲子園に初出場した。 ◇もう一度、「やればできる」を あれから20年。安富さんには将来、母校に教員として戻るという夢がある。「もう一度、小さな田舎、学校から『やればできる』を表現したい」。そのためにも「子どもたちが進んで行きたいと思える魅力ある学校をどう作っていくか」と考える。かつて教員と生徒、保護者、村が一つになっていたように……。 当時のチームメートは今は村役場に勤めるエースの仲間芳博さんや三塁手の山城優太さん、社会人野球の沖縄電力でもプレーした捕手の山城尚悟さん、消防士になった中堅手の幸喜大輝さんら多くが宜野座村で暮らす。安富さんから「母校に戻り、経験したことを教師という立場で還元したい」と聞いた仲間さんは「僕らもサポートする。子どもたちが安富監督のもと再び甲子園に出るのが夢です」と語る。仲間さんも村職員として構想を抱いており、「将来『野球の村宣言』のようなことをして、村を活気づけたい」という。 「僕らみたいないなかっぺでも一日一日を大切に地道にやっていればチャンスがある」。安富さんが20年前のセンバツでつかんだ教訓だ。今、わずか5人の部員と向き合う理由もそこにある。21世紀枠で出場した意義は何だったのか。3月末で教員生活を終える奥浜さんに尋ねるとこう答えた。「5年後、10年後、20年後、(安富)勇人は生徒に、村役場に勤める者は村民に。それぞれの立場でどう向き合っているかだ」【荻野公一】 ◇最上位・過疎地域 21世紀枠の出場校のうち準決勝まで勝ち進んで4強入りしたのは宜野座のほか、09年の利府(宮城)。16強には08年の華陵(山口)が入っている。今回の21世紀枠で宜野座以来の沖縄からの選出となった具志川商も宜野座と同じく過疎地域など困難条件を克服して選出された。部員不足に陥っていたが、会社員のOBが指導するなど地域の支援を受け、昨秋初出場した九州大会で8強入りし宜野座以来の「旋風」を狙う。03年に選出された隠岐(島根)や11年の佐渡(新潟)、14年の大島(鹿児島)は離島から出場した。