日本史の偉人「意外と二面性ある」驚きのトップ3。戦国時代や幕末の偉人も、どんな二面性?
「この世ははかない夢のようなもの。どうか私に信仰心を授けて、後生をお救いください。私は一刻も早く、この俗世から逃れて仏門に帰依したいのです」 このとき尊氏はまだ32歳。出家するには早すぎるが、天皇に背いたことへの後悔もあったようだ。これからが大切という時期に、自分は出家して「政務は弟にすべて任せる」と言い出したのだから、周囲が慌てたことはいうまでもない。 結局、弟の直義を始め多くの人々に反対されて、尊氏は仏門に入るのを断念。その2年後に、尊氏は征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を設けた。
戦にめっぽう強く勢いに乗るとだれも止められないが、いきなり自信をなくしては出家を口にする……。そんなわかりづらさが、尊氏がイマイチ評価されにくい理由かもしれない。 ■沖田総司は明るい性格と言われているが… 1位:沖田総司は農民相手にも容赦なきスパルタ キワモノぞろいの新選組のなかでも、剣の達人だったのが、沖田総司だ。その腕前は、局長の近藤勇、副長の土方歳三をも凌ぐと言われていた。 総司は明るい性格だったらしい。 著者が子孫への取材など長年の実地調査を基にして書いたノンフィクション 『新選組始末記』(子母澤寛著)では、次のような記述がある。
「朗らかでよく冗談を言い、周囲の者を笑わせていた」 新選組の屯所での稽古についても、新選組の池田七三郎が「沖田氏は冗談ばかり言ってにぎやかな剣でした」と振り返っていることからも、ピリピリした雰囲気は感じられない。 だが、農民たちへの出稽古では少し違った顔を見せていたようである。総司が通う道場「試衛館」の面々は、多摩地域の農民たちに出稽古をつけたが、指導者として人気があったのは近藤勇や土方歳三、山南敬助だった。
一方で、最も嫌がられたのが、意外にも沖田総司である。近藤や土方は、その厳格なイメージとは裏腹に、稽古は丁寧で優しかった。しかし、総司は指導法が荒っぽく、農民たちがうまくできなかったら、短気を起こしたという。 農民が剣術を得意としないのはいわばあたりまえのこと。まったくできないからこそ、自衛するために実用性の高い天然理心流を学びたいと稽古を頼んできているのだ。 できないからといって、感情的に指導するのはもってのほかだが、剣の才能に恵まれた総司にとっては、できない人の気持ちがわからなかったのではないだろうか。