「年間100回以上遠征していた」“元アイドルオタクのアイドル”が武道館のステージに立つまで
“いかにアイドルオタクをするか”がすべてだった大学時代
――関西から東京までだと、かなりの距離があると思うのですが……。 小鳥遊るい:主に夜行バスを使い、アルバイトや授業のあとに7時間かけて東京へ通っていました。ほかの地域への遠征もふくめて、1年間で100回以上は現場に行っていたと思います。ライブって、同じものは存在しないんですよね。そのときにしか味わえない熱を感じ取りたいし、ミスやトラブルさえも見逃したくなかったんです。いつの間にか、行く度に少しずつ撮影していたチェキの枚数も1,000枚を超えていました。 ――遠征費は、どのようにして確保していたのでしょうか? 小鳥遊るい:貯金ばかりしていた大学1年生の頃のお金をパーッと使いつつ、飲食店などのアルバイトもバリバリこなしていました。授業の合間すら無駄にしたくないと思い、大学の図書館で書庫の整理をする仕事をして、遠征費の足しにしていました。あの頃は本当に、“いかにアイドルオタクをするか”が生活の基準になっていたと思います。就職活動が始まったときも、できるだけ休みが多くて、ライブに通いやすい仕事ばかりを探していました。
ただのアイドルオタクが武道館アイドルへ
――そんなアイドルオタクの小鳥遊さんが、なぜアイドルの道に進んだのでしょうか? 小鳥遊るい:いまの事務所からスカウトをいただいたのがきっかけです。密かに自分が舞台に立つことへの憧れがあったので「このチャンスを逃したらきっと後悔する」と思いアイドルになる決意をしました。問題は、母の説得でした。国立大学に通わせていた娘が、就活中にいきなりアイドルをやりたいと言い出したら、それは不安な気持ちになりますよね……。「それ騙されていない?」「運動音痴なのにステージで踊れるの?」などと、案の定とても心配されました。それでも、“1年やってダメならあきらめる”という条件のもとなんとか納得してもらい、アイドルオタクだった私はステージの上に立つアイドルになりました。 ――アイドルになったばかりの頃は、やはり苦労が多かったのでしょうか? 小鳥遊るい:コロナ禍でデビューライブが中止になり、私のアイドル人生はいきなり無職のような状態からのスタートでした。いざ活動が始まっても、歌やダンスはもちろん未経験で、スキップすらできない私の苦労は絶えることがありませんでした。周りのメンバーはスキルが高くて、ただただ私は必死に付いていくだけ。それでも、アイドルオタクとして自分が憧れていた“理想のアイドル”になりたい。その気持ちだけは人一倍強かったおかげで、どんな辛いことがあってもチャレンジを続けられたと思っています。