センバツ高校野球 就任7年目 石橋・福田博之監督 ナインと一緒に楽しむ /栃木
◇次々に野球部強化 「行ったところが母校」 石橋(下野市)の指揮を執るのは就任7年目の福田博之監督(57)だ。石橋を春夏通じて初の甲子園に導く以前から、赴任した高校で次々と野球部を強化してきた。試合を前に「生徒も私も初めての甲子園でドキドキ。一緒に楽しみたい」と語る。【鴨田玲奈】 「しっかり捕れよ!」「準備をもっと早く!」--。2月中旬、石橋のグラウンドに福田監督の声が響いていた。口調は荒いが、選手からの信頼は厚い。横松誠也主将(3年)は、「すごく厳しく、絶対に妥協をしない人」と話す。 福田監督は芳賀町出身。中学で野球をし、真岡高では野球部に入らなかったが、進学した宇都宮大で硬式野球を経験。生物の教諭として最初に赴任した壬生高で監督になった。壬生では1990年と94年に夏の県大会8強。その後に赴任した真岡では部長時代に秋の県大会優勝、監督としても夏の県大会で4強入り。第75回記念選抜高校野球大会で、21世紀枠の関東・東京地区推薦校に選出された。 さらに宇都宮北で09年の春の県大会で準優勝している。横松主将は通っていた下野市立国分寺中の教諭に「福田監督は行く高校すべてで野球部を強くしている」と勧められ、石橋へ入学を決めた。 福田監督を知るひとは、「ずっと野球の勉強をしている」と口をそろえる。本人は「プレーヤーとしての実績はなく、知らないし不安だから勉強しているだけ」と素っ気ないが、壬生時代の教え子の神山寛さん(46)=壬生町=によると、生物研究室の福田監督の本棚は生物関連の資料の他に野球に関する本でびっしり埋まっていたという。特に「ベースボールクリニック(ベースボール・マガジン社)」を定期購読し、愛読していた。 他校の指導者にも積極的に教えを請う。とりわけ木更津総合(千葉)の五島卓道監督に影響を受けたと言う。福田監督は理由を「毎年良い投手を育て、バットを短く持って鋭いスイングをしている。私立だけど、公立校がやるべき野球をやっている気がする」と説明する。 夏の甲子園期間中、少しでも時間に余裕があれば一人で大阪行きの夜行バスに乗って甲子園で観戦し、その日の夜行バスで帰ってくることを繰り返した。「選手たちと目指す場所の確認」と言う。指導の上で一番大切にしていることは「生徒以上に自分が情熱を持つこと。行ったところが母校のつもりで全力を尽くしている」。 石橋では、平日の練習は放課後の2時間。加えて2、3月は学期末試験や高校入試があり、練習ができない日も少なくなかった。それでも福田監督は「短時間でいかに質を上げて練習に取り組むか。また準備を早くするなど、細かいところで練習時間を増やした」と話す。 甲子園は壬生で指導していた30年以上前から来たかった舞台。福田監督は、「楽しみな反面、不安もある。栃木県だけでなく、全国から選ばれたという自覚とプライドを持って、自分たちらしい野球を披露したい」と意気込む。 ◇かつての教え子もエール かつての教え子も福田監督と石橋ナインを応援する。 壬生で当時主将だった神山さんは、チームがまとまらなかった3年の春、福田監督に言われた言葉が今も心に残る。「高校野球は2年半しかないかけがえのない経験だ。そんな時に俺はやらなくて後悔した。お前らには『一生懸命やって良かったな』という思いをしてほしい」。目に涙をためていた。神山さんは「一生懸命話してくれたお陰で、夏の県大会は8強まで進めた」と懐かしむ。石橋のセンバツ出場について、「福田先生の夢がかなってうれしい。かなえてくれた石橋の選手たちに本当に感謝」と喜ぶ。 「選手一人一人をよく見てくれていた」と振り返るのは真岡時代の教え子の田中周さんさん(37)=芳賀町。Bチームだった1年生の夏前、福田監督は田中さんのスイングを褒め、Aチームの前で「このスイングが一番良い。お手本にしろ」と言い、その日から遠征にも連れて行ってもらえるようになった。「その後は監督から言われたことが自信になって、打てない気がしなかった」と振り返る。「真岡野球部OB会は、福田先生を愛する会。当時からチャレンジ精神あふれる人だった。悲願の一勝をつかんでほしい」と話す。