〈泣き歌の貴公子〉林部智史「高校浪人までして目指したプロバスケの夢はかなわず。看護学校に通うも中退。自分探しの放浪先で歌の道を決意して」
◆看護の道に挫折して バスケで身を立てることは諦めたものの、じゃあほかに何をすればいいのかさっぱりわからない。卒業後はどうしようと迷っていたときに、看護系の仕事に就いている母親から「看護学校に進んでみれば?」と勧められたのです。今となれば短絡的だったと思いますが、その場の流れで「よくわからないけどいいかもしれない」と進学を決めました。 当時はまだまだ、男性の看護師が少ない時代。その学校も圧倒的な女性社会で、男子学生は僕一人でした。男子校にいた人間が、いきなり女性しかいない環境に飛び込んだのですから、孤独なんてものじゃない。 しかも実習は病院内で行われるため、学校と病院を往復するだけの毎日で、外の空気を吸う機会もないのです。何より、目の前で亡くなっていく患者さんを見るのが本当につらくて。精神的にまいってしまい、2年で中退することになりました。 普通ならここで実家に戻るのでしょうが、僕はどうしても帰りたくなかった。地元はいいところもたくさんあるのですが、狭い社会なので「Aちゃん、学校辞めちゃったらしいよ?」みたいに、よその家の事情が筒抜けなんですね。それには耐えられないと思いましたし、腫れ物に触るように接してくる周囲と向き合うのもつらいなあ、と……。 そんなとき、沖縄に住んでいた姉が「じゃあこっち来てみたら?」と声をかけてくれて。渡りに船とばかりに、しばらくの間、姉のところに居候させてもらうことにしたのです。 このとき強く思ったのは、「まだそれが何かはわからないけど、これからの時間で自分が本当に好きになれるものを見つけたい」ということ。言ってみれば「自分探し」ですね。 どうせならこの機会に日本一周してやろうと、ネットで住み込みのアルバイトを検索。北海道の礼文島で働いていたときに、運命の出会いを果たします。
◆新聞配達で学費と生活費を得る 礼文島の同僚にギターを弾く音楽好きな人がいて、僕も時々ギターに合わせて歌わせてもらっていたのですが、あるとき「その声でなんで歌手を目指さないの?」と言われて。 実は、歌は昔から好きだったものの、音楽と縁のない環境で育ったため、仕事にするという発想がなかったんです。でも、そのときはなぜか「そうだ、歌をやろう」と素直に思えたんですね。バイト生活を始めて1年半、僕は21歳になっていました。 まずは基礎を学ぼうと、東京・高田馬場にある「ESPエンタテインメント東京」のヴォーカルコースに入学。新聞奨学生として新聞配達をすることで、学費と生活費をまかないました。そしてこの経験が、のちに大きなチャンスを運んでくれることになるのです。 在学中の生活は極めて規則正しいものでした。まず夜中の1時半に起きて、新聞にチラシを挟み込む作業。2時半から担当エリアの住宅400軒に配達。朝6時に終えると、寮でシャワーを浴び、まかないの朝食を食べて学校に行きます。 12時半に授業が終わると寮に戻り、14時頃から夕刊の準備。17時には配り終わるので、またまかないのご飯を食べて20時頃に就寝。この生活を卒業までの2年間、ほぼ毎日続けました。大変ではありましたが、食事が出てお給料ももらえたので、すごくありがたかったです。 (構成=上田恵子、撮影=宅間國博)
林部智史
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