戦後日本のトラウマの記憶と歴史を伝奇×SF×ミステリーで描く 奥泉光が放つ1100ペー ジの超規格外ミステリー(レビュー)
神島健作。分厚くて登場人物も次々と迸るように現れる本書だけれど、主人公が居るとすればとりあえず彼だろう。五味川純平の『人間の條件』の梶に相当する。この作品は、神島健作をかりそめの中軸として、そこに絡まる人間群像から、昭で和の戦争に絡まる日本人の体験・記憶・トラウマをまとめて引き受けようとする、一種の全体小説として読める。でも、もちろん『人間の條件』のようにマルクス主義的正義観から帝国主義戦争をバッサリ否定するわけではない。トルストイの『戦争と平和』のように正面から時代の総体を引き受けようとするわけでもない。複雑怪奇な現代の解き明かしがたい機構の全貌なんて何頁書こうが真面目に捕まえられるはずがない。文学がとうの昔に思い知った諦念である。だがその諦念に組み伏せられたままでは文学は死ぬ。ならどうすればよい? 真面目に世界を掬いきれないなら、たとえば思い切り不真面目に、遊び心いっぱいに、虚空に網を投げて全体を捕まえているぞと嘯(うそぶ)くようなやり方がありうるだろう。奥泉はその手をこれでもかと使ってきた。しかも不真面目さの手練手管にいよいよ磨きがかかっている。そのひとつの果てが本作だろう。 作品は、いつもの奥泉のようにまずはミステリー仕立て。ミステリーは世界を有機化するのに最適のツールだ。全世界を起こった事件に関係の近いものと遠いものに分けてしまえるのだから。混沌たる全体を序列化し把握可能にする。その契機が事件だ。大戦争のように巨大な出来事が際限なく連鎖してやまなくなると、すぐ小説の器から溢れる。「小説・××戦争」なんて代物はたいてい面白くない。「××殺人事件」にかぎる。 本書では戦後2年の1947年3月、山形の庄内で元陸軍中将が殺される。当時、庄内に住んでいた元陸軍中将と言えば何といっても石原莞爾。彼が被害者の歴史架空ミステリーがあったらそれはそれで面白いが、本書はそんな安手の発想とは無縁だ。作家の掴まえたい全体を純然と示すには実在の名の登場頻度は程々の方がよい。本作で殺されたのは棟巍(とうぎ)正孝。小説の創造した架空の軍人である。犯人は誰か。容疑者のひとりに浮かぶのは地金ミノル。極貧の育ちで兵隊帰り。軍隊でも上官の「下僕となって鼠みたいに動き回」り、「あそこまで卑屈にならなくてもいいんじゃねえのと、周りから軽侮の視線を投げつけられ」る。が、貧しいミノルは「苦痛を軽減し生存しつづけること」という「生物体の基礎原理」に忠実に従って生きることでいつも手いっぱいなのだ。まさに動物。生きたい。ただそれだけ。「鼠みたい」という比喩もそこで利く。言わば鼠人間。人間の“地金”は鼠だったのか。 するとミノルはどうして元将軍の殺害犯人の候補にされたのか。元将軍とはだいぶん年の離れた末の弟と、小学生の頃、付き合いがあり、両者はフィリピンの捕虜収容所で再会を果たしてもいる。その縁でミノルは戦後の元中将の家の様子を知らないではなかった。そして彼は生きるためには何でもする鼠人間。いかにも犯人っぽいではないか。えっ、主人公だという神島健作はどこに行ったかって? 被害者とミノルを結ぶ線上に健作は居る。棟巍元中将の末の弟が庄内の酒田の富裕な家に養子に入り、神島になったのだ。 健作は庄内から東京商科大学(現一橋大学)に進学し、マックス・ヴェーバーを研究していた。知的選良であり、理性的近代人である。しかし学徒も戦場に赴くときが来た。健作は出征し、南方戦線で生の極限を体験し、地金ミノルと同じ動物的存在に堕ちた。復員して学窓に戻っても、「わが半身が、わが分身が、いまなお南洋の島嶼にあって飢餓と疥癬と潰瘍に苛まれつつ暗い樹林や湿地を彷徨していると感じていた」。戦後の健作の中には人間と動物、理性と鼠が同時存在するようになった。地金ミノルは貧しさゆえに戦前から動物だったが、健作もまた戦争体験によって動物たることを内面に擦り込まれた。言わば半人半鼠としてしか生きられなくなった。 そういう書き方が奥泉の方法であり戦略だ。昭和の戦争に絡まる日本人の体験・記憶・トラウマをまとめて引き受けようとする一種の全体小説は、人間が幾ら自律化をめざそうとしても上手くゆかずに二重化・多重化し分裂してしまう有様を、ありとあらゆる物語のパターンや文章技巧を尽くして、しかも巨大なカオスを読者が不断に意識せざるを得なくなるくらいに本を分厚くし、紙を字で埋め尽くすことで達成される。たとえば、健作が半人半鼠ということは、動物的生存本能に理性が覆い隠される精神の情況を細密描写するなどという仕方で表現されるのではない。奇想を尽くした筋書きによってあまりに具体的に展開する。何とカフカの『変身』よろしく、健作は本物の鼠になる。でもザムザが虫になるのと違って、健作は鼠と人間に分裂する。小説の途中から鼠の健作と人の健作が同時存在するようになる。鼠の健作は人の健作を観て驚く。ホフマンやポーのドッペルゲンガー物の変種であろうか。とにかく健作は即物的に分裂し、読者は世界の目くるめく多重性の渦中に投げ込まれる。むろんこの筋立ては長い小説のほんの一部分。庄内での殺人事件を発火点とし、大戦争という人間を無化する歴史経験を転轍機として、とどまるところなく噴火を繰り返す奥泉の、カオスとしての現代世界の似姿として小説世界を際限なく二重化・多重化させたいとの欲求は、変身譚のみならず、ディックもびっくりの時間と空間の混乱をもたらし、筒井康隆や眉村卓も驚く時間旅行的ストーリーも組み込まれ、半村良顔負けの伝奇性へと猛進し、原智恵子や仲小路彰を思い出させるムー大陸的設定も顔を出す(『鳥類学者のファンタジア』に重なる部分。奥泉は自作の複合による巨大な「虚史」の造形を夢見るロマン主義者なのだ)。そしてついに黄泉平坂(よもつひらさか)を塞いでいた千引(ちびき)の石を動かしてしまったのか、それとも平田篤胤的想像力の炸裂なのか、三島由紀夫の『英霊の聲』を遥かに凌駕する勢いで死者の声をリズミックに大噴出させ、生者の独占する歴史語りを嘲笑う(タイトルの意味だろう)。その様がまた特異なレイアウトで紙上に表現され、これはもう読みながらにして神秘儀式の現場に居合わせるようなものだ。読み手は活字の大津波にきっと攫われる。 ところで主人公の姓がなぜ神島か。政治学者の神島二郎をどうしても思い出す。師匠の丸山眞男に自律した近代人の理想を叩き込まれながら、フィリピンでの極限的な軍隊体験から動物としての人間を思わざるを得なくなり、柳田國男に惹かれて、前近代的な、極言すれば鼠のようにしか振舞えない民衆の情念と近代理性とのあいだに引き裂かれていった神島。奥泉文学のサブ・テキストには神島政治学をお薦めします。 [レビュアー]片山杜秀(慶應義塾大学教授) 1963年宮城県仙台市生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学法学部政治学科卒業、同大大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。大学院時代からライター生活に入り、『週刊SPA!』で1994年から2003年まで続いたコラム「ヤブを睨む」は『ゴジラと日の丸――片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全』(文藝春秋)として単行本化。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング 吉田秀和賞・サントリー学芸賞)、『未完のファシズム――「持たざる国」日本の運命』(新潮社 司馬遼太郎賞)、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、『見果てぬ日本――司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』(新潮社)、『鬼子の歌――偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)、『尊皇攘夷――水戸学の四百年』(新潮選書)、『大楽必易――わたくしの伊福部昭伝』など。 協力:河出書房新社 河出書房新社 文藝 Book Bang編集部 新潮社
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