機械化の牽引が遅れた不運な野戦重砲【14年式10cmカノン砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しいと語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 第1次世界大戦において本格的な地上戦を経験しなかった日本陸軍は、ヨーロッパにおける各国軍の戦訓を、同戦後の兵力整備の参考とした。そのような流れのなかで、野戦重砲兵向けの新しいカノン砲が発案される。当時の同軍は砲兵の機動性をそれなりに重視しており、馬だけでなく、日本陸軍として初めて車両を用いた牽引も想定。砲を軽量化することにより、牽引の容易化に加えて、展開と撤収の容易化も視野に入れていた。 このように、先見性に富む優秀なプランニングによって、新しいカノン砲は口径105mmとされて設計と開発が進められることになった。開発は1918年に開始されて1923年に試作砲が完成。しかし構造の一部が外国の特許に抵触することがわかり、当該の特許の有効期限切れの1925年に、14年式10cmカノン砲として制式化された。 完成した砲は比較的とりまわしがよく、部隊での評判も悪くはなかった。しかしその牽引にかんしては、馬8頭または車両による牽引が想定されていたものの、適切な車両がなかったため馬に頼る期間が続いた。軍の発案と現実の予算や開発力は、必ずしも連動しているわけではないのだ。後年、92式5トン牽引車が開発されたことで、やっと機械化牽引の途が開けたが、今度は同車の絶対数の不足に悩まされることとなった。 14年式10cmカノン砲の生産数は64門と伝えられる。火砲という兵器、特に直接射撃ではなく間接射撃を行う砲は、「発射装置」たる砲そのものの絶対数をそろえ、それに弾薬という「発射体」を潤沢に補給して撃ちまくらせることで、はじめて威力を発揮する。1万mをはるかに越える射距離において、まるで狙撃ライフルのように1発必中などできるわけもなく、豪雨のように砲弾を降らせることで、はじめて一定の効果が得られるのだ。 砲の中でも特に野戦重砲という「重兵器」は、「川下」たる現場における機動力と兵站力が相応に整備されており、さらにその「川上」というべき、国力もかかわる砲と弾薬の生産力が適切でなければ、しかるべき威力を発揮し得ない兵器といえる。 この点で日本陸軍には、これらのすべてが不足していた。ゆえに、仮に砲と弾薬の性能がいかに優れており、仮に個々の砲兵がいかに練成を重ねた優秀な人材たちだったとしても、その活躍に「越え難き限界」があったのはやむを得なかった。
白石 光