なぜ江戸時代の長崎では「大量の酒」が飲まれ、「酒のつきあいが何より大事」とされていたのか
江戸の酒乱たちはどう裁かれたのか
しかし、なかには酒で人生を狂わせた者もいた(田中輝好「長崎奉行所判決記録に見る江戸時代の酒乱と酒狂」)。 寛文一〇(1670)年二月六日の晩、町使(長崎の治安などを担った、地役人の一つ)溝口伝右衛門の弟・久左衛門(23歳)が、今紺屋町で紙すきをしている伝右衛門の下人(奉公人)又兵衛を包丁で突き殺す事件が起きた。 久左衛門を調べたところ、酔狂(酒乱)とのことで翌々日の八日、斬罪に処した。事件の詳細は不明だが、奉行所が久左衛門を捕らえた二日後には刑が確定している。このことから刑を決めたのは奉行だったことがわかるが、刑の執行までに時間がおかれていないことに驚かされる(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一四頁)。 同様の件は他にも見られる。寛文一二(1672)年六月一八日の晩、長右衛門(35歳)は、同じ貸家にいた庄兵衛のところで吉兵衛と酒を飲み交わしていた。何かトラブルがあったのだろうか。長右衛門が吉兵衛の背中を包丁で突いた。 互いに恨みがあったわけでもない単なるその場での酒乱とのことで、一座の者が長右衛門を叱りつけた。一座の者、とあるから、庄兵衛のほか複数の者がそこに居合わせていて、そのなかでことを収めようとしていたことがわかる。その場では、吉兵衛は大事に至らないとだれもが思ったに違いない。 しかし傷を負った吉兵衛は次第に弱り、ついには瀕死の状態に陥った。吉兵衛は毛皮屋町の八右兵衛の養子だが、今回の件は吉兵衛の居住する材木町の乙名と組頭が奉行所に訴えた。 長右衛門は奉行所に召し出され、罪状を確認したが間違いなく、六月二三日に入牢を命じられた。なんとその後、不幸にも吉兵衛は閏六月二四日夜半に亡くなった。これで長右衛門は殺人犯となり、翌日に死罪となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一八頁)。 翌年には利兵衛なる者も酔狂で人を傷つけ、刀傷の科で入牢を命じられている。しかしこの例では相手の傷が平癒し、いずれも意趣もなかったことから許された(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)二一頁)。この例をふまえると、吉兵衛が死ななければ長右衛門は死罪にならなかった可能性が高い。 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)