なぜ江戸時代の長崎では「大量の酒」が飲まれ、「酒のつきあいが何より大事」とされていたのか
江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。 【画像】1825年の出島 その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。 人は何かをきっかけに、理性を失ってしまうことがある。いつの時代、どこであっても、だれにでもあり得ることである。しかし、理性を失うにしても、現代の感覚では理解しがたい場面が「犯科帳」には多々見られる。 徳川社会に生きた人々の酒にまつわる人間模様に注目して時代相を探ることにしよう。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
「酒肴の交を第一とする所」長崎
酒を飲みすぎて失敗した覚えのある人は少なくないだろう。そんな人は、いつの時代にもいた。度が過ぎた行為をする者も、またしかりである。 長崎には寛文五~六(1665-66)年の時点で小売りを含まない造り酒屋が161軒あり(ただし、そのうちの51軒は寛文三年の大火で酒道具を焼失し酒造を止めていた)、一万九〇〇〇石ほどの酒造米高があった。長崎周辺の「長崎付地方」といわれる長崎村、浦上村山里、浦上村淵の合計石高は約三四〇〇石ほどだから、酒造米高はかなり多く、長崎の人口約四万人の四、五ヵ月分の飯米高になる。 なぜこんなに多量の酒が必要だったのだろうか。 それは金・銀の海外流出を防ぐため、異国人に購入させる酒を確保する必要があったからだった。一八世紀頃には長崎自体での酒造は二七〇石まで減少し、必要な量は関西方面をはじめ他地域からの酒で賄われた(若松正志「貿易都市長崎における酒造統制令の展開」)。 このように人口に比し豊富な酒が存在していた長崎では、宝永五(1708)年に禁止されるまで、罪人の引き回しの際に町々から罪人に酒などが振る舞われていたようである(「長崎御役所留 下」)。京都の蘭方医で二回、長崎を訪れた広川獬が寛政一二(1800)年に刊行した『長崎聞見録』にも長崎は「酒肴の交を第一とする所」と記されている。 これらの点から長崎には酒に興じる者が多かったと想像されるので、酔って起きた事件が多かったことにもある意味、納得がいく。酒の上でのこととして少々のことは水に流し、被害者が町役人とともに内済願いや吟味下願いを奉行所に提出して、今日的にいう示談で済ませた場合も多くあった(例えば森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(四)七七頁、八七頁)。