『夜明けのすべて』は“身振り”の映画である 三宅唱のリズムで描き出された“宇宙”
「映画」としての宇宙
ところで、藤沢さんと山添くんが勤める会社を、移動式プラネタリウムを実施する企業としたのは、瀬尾の原作小説にはない、今回、三宅が追加した映画版オリジナルの設定である。物語のクライマックス、移動式プラネタリウムの真っ暗なテントの中で、来場者たちは、星々がきらめく頭上のスクリーンを見上げる。また、本作では、ほぼ全編を通じて、栗田科学の副社長・住川雅代(久保田磨希)の息子の中学生・ダンと同級生の少女が、学校の課外活動と思しいビデオ撮影による社員インタビューを行っているシーンがエピソード的にインサートされる。これもまた原作小説にはないディテールだ。 これらの点に注目することで、メディア論的な視点から最後に一つのある批評的な解釈を付け加えて、このレビューを終えたい。 すでに本作について多くの観客が言及している通り、『夜明けのすべて』は、このデジタル全盛の時代に、あえて16ミリフィルムを用いて撮影されている。そのフィルム独特の肌理に宿る触覚的と呼べる質感が、本作の「夜明け」というモティーフを視覚的に表現する光と影の“あわい”のイメージによく馴染んでいることは明らかである。そして、このこととも考え合わせれば、以上のようにアダプテーションされた『夜明けのすべて』は、他ならぬ「映画」という20世紀的なメディアの隠喩に満ちみちた映画だということができるだろう。 おそらくこの類推は、やはり前作の『ケイコ 目を澄ませて』によっても補足できるものである。繰り返すように、先天的な聴覚障害のプロボクサーを主人公にしたこの作品は、『夜明けのすべて』に先駆けて、やはり16ミリフィルムで撮影されている。物語の中で、ヒロインのケイコは、所属する下町の小さなボクシングジムの閉鎖の危機に直面している。また、言葉を発しないケイコが弟の聖司(佐藤緋美)と手話で会話するシーンでは黒地の画面に字幕が挿入される。フィルムというメディウムによってかたどられた、いまや閉鎖されようとする古びた「空間」を舞台に、言葉を発しない人物が躍動する『ケイコ 目を澄ませて』の世界とは、その意味で小津安二郎やF・W・ムルナウの「サイレント映画」の慣習と記憶を観客に強烈に呼び覚ます(『サンライズ』のあの電車!)。 やはり濱口と同様、フィルム撮影の映画から、Netflix配信によるオリジナルドラマ『呪怨:呪いの家』(2020年)、『ワイルドツアー』(2018年)などのインスタレーション作品まで幅広い「映像作品」を手掛ける「ポストメディウム」な監督でもある三宅は、それゆえにこそというべきか、近作において、「映画」へのメディア考古学的な目配せを演出や映像に入れ込んでいるのだ。こうしたアプローチは、その他の傑出した現代映画ーーたとえば、図らずも日本では『夜明けのすべて』と同日公開となった、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『瞳をとじて』とも共鳴するものだろう。 そして、以上のアナロジーから「映画的」な時空として描き出される宇宙空間の中で、実際には何光年もの気の遠くなるような距離を介して散らばっている孤独な星たちは、たとえばそれがプラネタリウムのような平面(スクリーン!)の上に置き換えられ、「星座」として結ばれることで、この世界に一つの関係を生み出すことができる。それは再び冒頭の問いに戻るなら、藤沢さんや山添くんたちが演じる、豊かな身振り=コミュニケーションのドラマを思わせる。だとすれば、本作が差し出すすべての「夜明け」とは、この世界と「映画」、その両方の言い換えでもあるはずだ。 ※ 本文のような作品評にとどまらない、現代映画における「リズム」の問題の重要性については、拙著でも繰り返し論じてきた。関心のある方は、『イメージの進行形』(人文書院)第2章、および『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン叢書)第3章を参照のこと。なお、この「リズム」のモティーフは、昨今の映画批評でもしばしば指摘される、現代映画で全面化する「音(楽)の復権」とも深く関わっている。その意味で、三宅の映画版が、原作小説にあった音楽映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)をめぐるエピソードをカットしたことは注目すべき点である。
渡邉大輔