長蔵小屋が歴史を紡ぐ 尾瀬の保護活動
お話を伺ったのは 平野太郎さん
長蔵小屋の4代目ご主人。曽祖父は尾瀬を開拓し、燧か岳の登山道を開いた平野長蔵氏。歴史ある山小屋を守り尾瀬の魅力を伝えるため、日々試行錯誤している。 ―歴史を感じさせる、すてきな雰囲気の山小屋ですね。 ありがとうございます。初代主人である長蔵の時代、最初に山小屋を建てたのは、尾瀬沼対岸の沼尻。その後、現在の東岸に場所を移してきました。沼尻は、燧か岳にいちばん近いふもとに位置するので、山岳信仰の拠点にはとてもよい場所。ですが、こちら側のほうが山からの湧き水は豊富で、人が往来したり馬で物資を運んだりしていた沼田街道沿いということもあり、さまざまな条件がよかったのでしょう。 ――街道といえば、群馬と福島を結ぶ道路を、尾瀬の中に通す計画が過去にはあったと聞いています。 私の父・長靖のころですね。沼田から会津を貫く車道の計画で、その反対運動に父は参加していました。昭和30年代後半には沼山峠までの道が、昭和40年代には群馬県側の道がつくられていき――。もしもその計画がそのまま進んでいたら、ここから1時間ほど登ったところにある小淵沢田代は、潰れていたかもしれません。 「自然保護」という考えがなければ、大江湿原の真ん中にも道路が通っていたかもしれない。大清水から一ノ瀬までの林道はいまも使われていますし、その先の岩清水まで延びている林道も、ほんの10年ほど前までは残っていました。 ――つい最近の話ですね。でも尾瀬は日光国立公園の一部として、昭和の初めには、すでに国立公園に指定されているのに、なぜ開発の危機にさらされたのですか? 昭和9年に国立公園に、昭和13年に特別地域に指定されています。しかしそれ以降も、尾瀬か原や尾瀬沼の発電ダム計画や道路工事は続いていきました。いまでこそ自然は守るべき〞という意識が世の中に浸透していますが、当時は、道路や電力の需要、国土開発への意識のほうが強かったのではないかと想像します。 ――平野家のみなさんは代々、山小屋を守りながら、自然保護運動に尽力されていて、尾瀬の歴史を語るうえで欠かせない存在ですね。 長蔵、長英、長靖と3代にわたり山小屋を営みながらの自然保護活動は、とにかく大変だったと思います。父は昭和46年、私が3歳のときに亡くなったのでそれらの活動について明確な記憶はありませんが、そのころの雰囲気は子どもながらに感じていました。当時は高度成長期で開発ブームの真っただ中。観光開発をして地方が豊かになることがなぜ悪いのか、という声のほうが多かったと思います。地元の人にとって、インフラの整備は大事なことですし、その感覚はそこで暮らしを営んでいればふつうのこと。 そんななか、周囲の人たちに向けて自然保護の価値観を伝えることは、簡単なことではなかったはず。先人たちの行動や努力には常に敬意の気持ちをもちながら、歴史ある山小屋を維持し、多くの人にこの美しい尾瀬の風景を見てもらいたいと思っています。 ――往年のファンはもちろん、カフェやお土産など、若い登山者の方も楽しめる要素が長蔵小屋にはたくさんありますね。 それも尾瀬を旅先に選ぶひとつの選択肢になればいいなと思っているんです。もしもここに道路が通っていたら、いまの風景や雰囲気は味わえなかったもの。すべてが便利になりすぎているいま、不便のよさを楽しみながらも、充実した時間をすごすことができるはずです。百聞は一見にしかず。まずは一度、尾瀬に来て一日をすごしてみてください。
ランドネ編集部