ヌードモデル、ゴミ箱から残飯を漁っていた無名時代のマドンナ…「神よりも有名になる!」と誓ったポップの女王が映画出演で思わず声を詰まらせた瞬間
8月16日に66歳の誕生日を迎える“クイーン・オブ・ポップ”と称されるマドンナ。1980年代のデビューから、常に進化し続けてきた彼女は幼い頃から「絶対にスターになる!」という強い信念を持っていた。それを本当に実現してしまうパワーの源はどこにあったのか? 【画像】25歳頃のマドンナが写るファーストアルバム
35ドルを握り締め「一番華やかな場所へ行って!」
1958年8月16日、マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネは、ミシガン州デトロイト郊外で生まれた。父はイタリア移民一世の出身で、母はフランス系カナダ人だった。 幼少の頃は大家族の中で育ち、日曜日には家族そろって教会へ行くという、昔ながらの慎ましい暮らしぶりだった。しかし、そんな彼女を失意のどん底に突き落とす出来事が起きる。 母親が乳癌で亡くなったのだ。大好きだった母親が、30歳という若さで病魔と闘いながら衰弱していく様を目の当たりにすることは、当時まだ5歳だった少女にはあまりにも衝撃的で、またこう思うようにもなった。 「母がいないなら、私は強くなる! 自分のことは自分でやる!」 そして1978年7月。19歳になったマドンナは、1年半しか通っていないミシガン大学を中退。「スターになる」という夢を実現するため、グレイハウンドバスでニューヨークへ旅立った。彼女にあるのは音楽やダンスへの情熱、そして着替えの入ったボストンバッグとわずか35ドルの現金だけ。 行くあてがあるわけでもなく、とりあえずタクシーに乗るとこう言った。 「一番華やかな場所へ行って!」
生活費を稼ぐために、美術学校でヌードモデルも経験
運転手が向かったのはタイムズスクエア。圧倒的な人の多さと、きらびやかなネオンに感動したマドンナは、心の中で強く誓った。 「神よりも有名になる!」 最初に借りた安アパートは、当時はまだ危険が多かったイースト・ヴィレッジのはずれだった。ドーナツ店のウェイトレスやレストランのクロークなどの薄給のアルバイトをしながら、ダンススクールで汗まみれのレッスンを受ける日々。 お金がないので、公園でゴミ箱からハンバーガーやフレンチフライを拾って食べたこともあった。生活費を稼ぐために、美術学校でヌードモデルも経験した。 やがて「スターになるには歌うことが近道!」と考えるようになり、バンドを組んで音楽活動をスタート。個性的なファッションとパフォーマンスを披露し、自分で作った曲をDJに渡したりした。 ダンスやヴォーカルの師として、マドンナが頼りにしたのは、自分と同じ夢を抱くヴィレッジの住人や色気と体臭が渦巻くクラブのダンスフロアだった。マドンナは1982年10月に『Everybody』でデビューを果たすまで、イースト・ヴィレッジにとどまった。 「ストリートで生まれるセンスやエネルギーやインスピレーションを巧みにとらえる天性を備えたダンサーであり、アーティスト」とメディアに書かれたのは、後のことだ。 契約先のワーナー・レコードが、まったくの偶然からマドンナを発見したのも一本のビデオテープであったというように、1980年代の音楽シーンは、ヴィジュアルの時代に向かって大きく様変わりしようとしていた。 その先導役を果たしたのは1981年のMTVの開局であり、マドンナは幸運にもその大きなうねりに乗った最初のアーティストとなった。 その最初のハイライトである、1983年から1990年までのヒット曲を記録した『The Immaculate Collection』には、ダンスフロアとポップチャートを騒がせた17曲のうち、No. 1ヒットが8曲も収録されている。このベストアルバムは全世界で3000万枚以上を売り上げた。 そんなスーパースターには、時に大きな逆風も吹き荒れる。
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