「光る君へ」道長のライバル・藤原伊周はどんな人物? 甘やかされたワガママなイケメン
大河ドラマ「光る君へ」では、道長に弓争いを挑んで負けてしまう場面が描かれた藤原伊周(これちか)。わずか21歳にして右大臣に上りつめた彼だが、もちろん、父親のコネによるものであった。一方で女性からはモテたので、『源氏物語』光源氏のモデル説もある。いったいどのような人物だったのだろうか? ■図々しすぎて嫌われた 藤原伊周といえば、いうまでもなく、道長のライバルとして知られた御仁である。ただし、道長より8つも歳下の甥。それにもかかわらず、道長よりも出世が早かったことも、よく知られるところだろう。 伊周が内大臣の地位に登りつめたのが、わずか21歳というから驚くほかない。今でいえば、さしずめ大学生あたりが大臣に任じられて国政を司ったというようなもの。 もちろん、自力で上り詰めたわけではない。摂政の地位に就いた父・道隆の後押しがあったからこその昇進であった。要するに、父親のコネである。大して実力もないのに要職に就いたわけだから、周囲から反発されるのも無理からぬ話であった。 道隆の病が悪化して床につくや、さらに息子を関白の地位にまで引き上げようとしたところで、一条天皇がストップをかけた。当然のことだろう。それでも、「関白病間」、つまり関白である父・道隆が病床にある間だけという条件付きで、内覧の地位に上ることを許したのである。手ぬるい裁決というべきか。 ただし、伊周はそれすら不満であった。「関白病替」、つまり永続的に関白の地位を継ぐことを望んでいたから、納得できなかったのだ。図々しくも、勅旨を文書化した大外記である中原致時に対して書き換えるよう依頼したというから、どこまで図々しいのやら…。 もちろん、断られてしまった。宣旨にさえ不満を募らせた伊周の驕り高ぶりに周囲は反感を抱いたというが、それも当然であった。甘やかされてわがままに育った御曹司の傲慢さ、それが如実に現れた問題行動であった。 ■光源氏のモデル説も 道長らによる摂関政治のありようを描いた『栄花物語』にも、彼は「心をさなくおはする人」と記されているが、まさに今ひとつ大人になりきれなかった御仁というべきだろうか。 ただし、容貌は、父・道隆に似てイケメンであった。少々小太りというところはあったものの、それがかえって、貫禄ありげに見えたからか、それなりにモテたようである。 妻妾も、源重光の娘や源致明の娘ばかりか、源為光三女(三の君、寝殿の上)や女流歌人・伊勢大輔、有道氏(名前は不詳)の名があげられることもある。 一説によれば、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルだったと見られることもあるほど、見目麗しい貴公子ぶりであった。さらに、政治能力はともあれ、文才にも恵まれていたようで、こちらは、女房六歌仙にも数えられた母・貴子から才を受け継いだのだろう。
藤井勝彦