「ビール×音楽」で紡ぐ亡き妻との夢。心を揺さぶる小さな醸造所の挑戦
■故郷・春日井市へのUターンで起業を決意 ほどなく子宝にも恵まれ、順風満帆な人生を歩んでいた入谷さんだが、入社から15年、東京生活10年目のタイミングで、故郷・春日井市へのUターンを決意する。 「仕事柄、どうしても転勤が多く、そのうち海外転勤を命じられる可能性もありました。もともといずれ愛知へ戻りたいと思っていましたし、第二子が妻のお腹にいたこともあり、今後の子育てを踏まえればいい頃合いだろうと考えたんです」 春日井市に戻った入谷さんは、一度は実父が営む家業にジョインするも、自分が本当にやりたいことは何なのかを模索し始める。他方、妻の光江さんは春日井市の新居で音楽教室を始め、順調に生徒を集めていた。そこでふと、将来のイメージに飛び込んできたのが、自らクラフトビールをつくることだった。 春日井市にはまだ、クラフトビールの醸造所が存在していないから、それなりに話題になるのではないか。さらにそこに、音楽の生演奏が聴けるレストランを併設するのはどうだろう。夫婦であれこれ夢想する中で、アイデアはどんどん具体化していく。 「春日井市はベッドタウンである半面、準工業地域で多くの工場が集まっています。だったら、ビールの工場があってもおかしくないだろうと考えました。そこに妻を中心とする音楽家の方々の生演奏が加われば、大きなアドバンテージになるのではないかと」 そうビジョンを固め、ロゴデザインのイメージを考えたり、ビールに楽器名をつけるアイデアを出したり、着々と実現へ向けて動き始めたのが2020年春のことだった。前途は洋々に見えた。
■一家を襲った突然の不幸 入谷さん一家を悲劇が襲ったのは、その年の秋だった。光江さんが突然発作を起こして倒れ、救急搬送された先で脳腫瘍の診断が下された。そして翌月、光江さんは40歳の若さで帰らぬ人となってしまったのだ。 当時の心境について、入谷さんは極めて丁寧な口調で次のように語る。 「それはもちろん、とてつもなく辛く、苦しく、しんどかったですよ。たぶん、あのタイミングで診察を受けていたら、私はうつ病と診断されていたと思います。でも、娘たちはまだ小学校1年生と幼稚園の年少でしたから、"絶対にこの子たちを守らなければ"という強烈な義務感が勝りました。ここで自分が落ちてしまったら、娘たちも終わってしまうという恐怖が原動力になっていましたね」 さらに振り返れば、この時期、多くの仲間に助けられたともいう。趣味のマラソン仲間が2日に一度家を訪れて娘たちと一緒に食卓を囲んでくれたり、近所の子どもたちが頻繁に遊びにやって来たり。心身ともに寄り添ってくれた周囲の気持ちが、明日へ向かう推進力になった。 何より、入谷さんには妻と創り上げた夢がある。今すぐやるべきことが目の前にあったのも、精神をポジティブに保つ要因になった。 夫婦ではなく単身となったことで、醸造所にレストランを併設する計画を修正し、簡易な飲食スペースに縮小。一方でコンサートスペースは残し、「音楽に耳を傾けながら、美味しいビールが飲める空間を」という最大のコンセプトを守り抜いた。 かくして、バタフライブルワリーは2021年11月に晴れてオープンを迎えたのである。