『ボストン1947』 、自己回復のドラマ【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.60】
とても面白かったです。構造はシンプルなスポーツ物語なんですよ。かつてオリンピックで金メダルを獲得し、栄光に浴した主人公が落ちぶれて自堕落な生活を送っている。現役時代、苦楽をともにした仲間が手を差し伸べるが、酒におぼれすっかり世を捨てている。が、ある日、素晴らしい素質を持った若者に出会うのです。若者は生意気ざかりで言うことをきかない。男はコーチとして若者を指導することになる。幾多の困難をのりこえて、若者は海外のビッグマッチに参加し、そして感動の勝利を飾る。 但し、そこに韓国の近現代史が関わってくるんです。主人公の男は1936年ベルリンオリンピックのマラソン競技で金メダルに輝いたソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)です。手を差し伸べる仲間は銅メダルのナム・スンニョン(ペ・ソンウ)です。ナチスドイツの国威発揚に利用されたベルリンオリンピックは「戦前」(これは太平洋戦争前という意味です。韓国は休戦しているだけで現在も戦争状態にあります)の出来事なので、日韓併合による日本統治下の大会出場になります。つまり、ソン・ギジョンもナム・スンニョンも日本選手だったんですね。表彰式ではベルリンの空に日の丸が2つ上がりました。いちばん高い場所に立ったソン・ギジョンは民族の誇りを傷つけられ、つい胸の日の丸を月桂樹の鉢植えで隠してしまう。それが統治政府の逆鱗に触れ、彼は引退を余儀なくされます。競技生活を失ったソン・ギジョンは荒れた暮らしを送ることになる。 「シンプルなスポーツ物語」は複雑な陰影を帯びていく。映画はベルリンオリンピックから10年後、1946年からスタートする。年号でおわかりの通り、日本は終戦の翌年ですね。韓国では8・15は光復節ですから、主権回復の1年後です。戦後の混乱期ですね。あるいは1950年、朝鮮戦争が勃発するまでの短い春のような季節。 その短い春の季節にソ・ユンボク(イム・シワン)は走りはじめます。国全体がそうでしたが、ユンボクも貧しく、金にならなければ走りたくないとうそぶく。ベルリンオリンピックの金銅コンビはユンボクの才能に目をつけ、自分をコントロールすることを学ばせ、道をひらいてやる。2人はユンボクを翌年のボストンマラソンに出場させようと奔走します。韓国はまだ臨時政府の時代で、国際大会に選手を派遣する国力はなかった。 駐留米軍にかけ合うと、「独立国じゃなく難民国なので、3人分の保証金900万ウォン+アメリカでの保証人が参加条件となる」と回答が来ます。劇中、30万ウォンで家一軒買えると説明がある。もちろん関係者の誰もそんな大金は用意できない。ベルリンの英雄、ソン・ギジョンは一計を案じます。自分たちの代表をボストンマラソンに送ってほしいと民衆に訴える。日本の統治が終わり、歩きはじめたばかりの貧しい韓国です。だけど、みんな「カゴ募金」に応じるんですよね。ちょうど経営難時代の広島カープの「樽募金」のような感じです。スポーツ自体は別におなかの足しにはならないけれど、みんなの生きる力になる。 僕は断片的な知識としてソン・ギジョン、ナム・スンニョンの名前(孫基禎、南昇竜と表記されました)や、その「日の丸掲揚」がいかに屈辱的な記憶として語られてきたか多少は知っているつもりです。ですが、彼らが後進を指導し、ボストンマラソンで大極旗を掲げさせたのは知らなかった。それからさっきの「900万ウォン」ですね。そういうディテールが興味深い。例えばね、ボストンへ向かう選手一行は「韓国・金浦→日本・羽田→グアム→ホノルル→サンフランシスコ→ニューヨーク→ボストン」と乗り継いで行ってるんですね。そういう実感的な描写がとてもいい。映画は知識じゃなく、生身の人間のストーリーを伝えてくれます。 ボストンマラソンには若きホープ、ソ・ユンボクと、中年になった銅メダリスト、ナム・スンニョンの2人が出場する。難民国からの出場として、危うく星条旗をつけさせられそうになったけれど、コーチのソン・ギジョンは命がけでそれを阻止する。主権回復した韓国の誇りのために選手を走らせたい。それは国と自分自身、両方のアイデンティティーを取り戻すことでもあります。「シンプルなスポーツ物語」は「シンプルなスポーツ物語」を超えていく。 表彰式のシーン。これもディテールですが、僕らの知る韓国の国歌(愛国歌)ではなく、「蛍の光」が歌われるんですよ。えー、何で「蛍の光」? スコットランド民謡じゃなかったっけ?、と疑問がわいた。そうしたら現在の曲が使われる前、「蛍の光」が愛国歌(歌詞は現在のものと同じだそうです)だったんですね。それは知らなかったなぁ。知ってたらパチンコ屋さんの閉店時間にもちょっと思うところあったかもしれない。 個人的には野球ドラマ『ストーブリーグ』(19)で勝気な運営チーム長を演じたパク・ウンビンが出ていて嬉しかったですね。やっぱり「スポーツ選手を身近で応援する女性」役です。この人は「もう選手が心配で身をよじっちゃう」みたいな感じを出すのが上手い。 文:えのきどいちろう 1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido 『ボストン1947』 8月30日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開 配給:ショウゲート © 2023 LOTTE ENTERTAINMENT & CONTENT ZIO Inc. & B.A. ENTERTAINMENT & BIG PICTURE All Rights Reserved
えのきどいちろう