傲慢な歌ではなかった? 道長「この世をば~」にSNSでさまざまな解釈、第10回の銀粉演出は伏線だったのか【光る君へ】
なんだか道長がかわいそうに思えてくる…「望月の歌」解釈
まず「后となった3人の娘たちへの思い」という意見。第36回で彰子が後一条天皇を生んだあと、まひろが彰子を月の光になぞらえた祝いの歌(めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ)を、道長に送ったのを覚えているだろうか?。 月を后の暗喩ととらえ、なおかつ「このよ」を「この夜」と解釈したら、娘たちの誰もが完ぺきな地位についた最高の夜だ・・・という風に考えることができる。ただもしそうだとしても、娘たち全員が多かれ少なかれ、自分を無理やり入内させた道長のことを軽蔑しているという事実を考えると、逆に物悲しい歌に思えてしまうのだが。 次の「陰りが見えた人生への挽歌」。この立后の祝宴での道長の表情は、祝いの喜びに満ちたものではなく、どこか冷めたものだった。権力を独占していることを周囲から煙たがられ、すべての職を辞した直後だけに、「望月の欠けたることもなし」という心持ちは、現代進行形ではなくもはや過去形なのかもしれない。 そういう寂しい気持ちを込めた歌に対して、実資は返事をくれることもなく、周囲の公卿に唱和させた。これって「私、さびしいんです!」という呼びかけに対して、誰一人慰めることなく「『私、さびしいんです!』って言ったのかー」って応えたようなものなので、そう考えたらなかなかの地獄絵図だ。
道長とまひろが結ばれたあの満月の晩…銀粉は伏線だった!?
こうして語ると、なんだか可愛そうなものに思えてきた「望月の歌」だが、道長くんにとって救いだったのは、まひろだけは彼の本心を読み取ったうえで「私だけは、あなたを信じて見つめつづける」というような目線で応えてくれたことだろう。 第10回で、初めて2人が結ばれた満月の晩に「良い政のために出世をする」という目標を道長に与えたまひろ。そして道長は約束通り、これまで誰も立ったことがないような権力の高みに到達した。そう考えると、詠った後にまひろに向けた道長の表情は「どうだ、約束を果たしたぞ!」と、ちょっと自慢するような感じにも見えた。 そんな道長の頭上に降り注ぐのは、あの満月の晩に廃屋に降り注いでいたのと同じ、キラキラとした銀色の光・・・2人にとっての最高の夜を思い出すと同時に、まさに道長こそがまひろにとっての「光る君」だったという、その結論に至ったことを暗示させるビジュアルだった。前述の第10回と今回の第44回は、どちらも銀粉使いの達人・黛りんたろう監督の演出回だったが、第10回で銀粉を使ったのは、もしかして今回の伏線をすでに貼っていたのだろうか? 藤原道長という人物を、これまでの権力大好きな剛腕政治家ではなく、本当はのんびりした心優しい人間が、ちょっとした見え方の違いと、強引さと表裏一体の真っすぐさによって「悪人」と思われるようになった・・・という視点で描き出した『光る君へ』。そうした積み重ねを経て「さてあなたには、結局藤原道長はどういう人間に見えましたか?」という一種の最終試験になったのが、この「望月の歌」だったように思える。 その結果SNSでは、本当にいろんな人がいろんな解釈を語っていて、チェックして本当に楽しかった。これほど「望月の歌」の読み取り方を、何10倍にも膨らませてみせただけでも、このドラマが放映された意義があったと思う。 ◇ 『光る君へ』はNHK総合で毎週日曜・夜8時から、NHKBSは夕方6時から、BSP4Kでは昼12時15分からスタート。11月24日放送の第45回「はばたき」では、まひろと道長の間にできた娘・賢子(南沙良)が宮仕えを開始するところと、「宇治十帖」を書き終えたまひろが旅に出るところが描かれる。 文/吉永美和子