ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (13) 外山脩
草創期(4)
一年近く経って一九〇七年三月、後任の公使が着任した。さらに半年後、水野が日本から戻った。 十一月、漸く移民契約が、農務長官と水野の間で成立した。州法の改正は済んでおり、ハワイやペルーの日本移民の調査もすんでいた。 南樹の勤勉さとポルトガル語の習得ぶりも、農務局の役人たちに好感を与えていた。役人たちは、日本移民の受入れ準備のため、彼をサンパウロの移民収容所の職員に採用した。 水野は急ぎ日本へ向かった。東京着が翌一九〇八(明41)年一月である。ここで、急ぎ……と書いたのは。━━ 実は右の契約の折、農務長官は移民のサントス入港を翌年四月、と要求した。これを水野が無理にひと月延ばして貰って、五月ということになっていた。間に合うだろうか? ともかく急ぐ必要があったのである。 結果は後述するとして、この契約の中で、州政府は水野に「三年間、毎年一、〇〇〇人ずつの船賃補助つき移民枠」を与えていた。カフェー園移民に若干の職工移民(大工、鍛冶工など)を含めて一、〇〇〇人である。上手く行けば、計三、〇〇〇人がやって来る。以後も同規模での継続が期待できた。日本民族の海外発展史上の壮挙となるであろう。 水野と南樹は、遂に大事を成し遂げたのである。 ともあれ、この国に於ける日本人の本格的な歴史の幕が開くことになった。 その幕開け劇の主役を演じたのが、山師の臭いを感じさせる上、粗放な性格の初老無名の実業家と、少年の日からの恋に殉じて放浪する三十近い純情青年だったということになる。この方がユーモラスで親しみ易いが……。 ここで落とせぬ話を挟んでおくと、実はこの一九〇六年、水野と南樹のリオ入りを追う様に、この国へ足を踏み入れた日本人が、ほかに二十数人も居た。 京都の風呂屋の道楽亭主、三宅栄次郎。 仙台の藤崎商会の野間貞次郎、後藤武夫ら四人。 鳥取県人、明穂梅吉と同行者三人。 鹿児島県の元判事で弁護士の隈部三郎一家七人。その同志の青年安田良一たち六人。 因みに、この隈部三郎の夫人が既述の「西南戦争を見た」という隈部イヲお婆さんである。 広島県人、岡田芳太郎。 鳥取県人、小谷初太郎と赤山長次郎。 伊勢商人の息子、大平善太郎と同行者二人。 以上の内、多くが杉村報告書を報じる新聞記事や堀口の帰国講演に刺激を受けての渡航であった。 それと、当時の日本にはロシアとの戦争を境に、海外に目を向ける気分が生まれていた。戦後の社会的雰囲気を反映したのが流行歌『赤い夕陽の満州に』であった。これが茫漠たる大陸、万里の沃野への憧憬を生み、逆に日本の狭さ、せせこましさ、貧しさを悟らせたのである。 右の二十数人について、もう少し触れておく。 三宅栄次郎は、もともと放蕩児で、銭湯の上がりでは女遊びもままならず、その上、勝気な母親の勘気に触れ、参っていた。そんな時、新聞で杉村報告書の記事を読んで「ひと山当てよう」と飛び出してきた。航海(西回り)の途中、マルセーユで売春窟に足を踏み入れ、丸裸にされ、すっからかんでリオに辿り着いた。 上陸後はビッショ(博打)に狂った。後日、前記の安田良一の結婚式に現れ、新郎に賭け金の借金を申し込んだこともあるという。 日本から二度、帰国費を送金して貰ったが、ビッショですってしまった。三度目の送金の時、遂に諦めて日本行きの船に乗った。ブラジル生活十五年であった。 出身地の関西喜劇を地で行くようなアホでオモロイおっさんである。