映画のパロディ化で話題になったものも…鉄道の「マナーポスター」の涙ぐましい努力の歴史
自分のふるまいを反省させるマナーポスターの登場
それは1987年に掲示された、「ミラーペーパー」を用いて自分自身の姿を映し出すポスターである。「鏡よ鏡、マナーの良い人はだーれ⁉」とキャプションがついている。「自分で自分のふるまいを省みよ」――この表現は、「家庭・地域という内部・仲間の延長」や「西洋という外部・他者の召喚」によってマナーを説いていない。むしろ、そうした内部や外部の準拠点が示されないまま、自分で自分のマナーをモニタリングすることを求めている。 さらに1990年代に入ると、それまでのポスターは「図柄やコピーのユニークさばかりが先行」していたと反省されるようになる。そして、動物と自然を主人公にした「自然シリーズ」と称されるものに方向転換していった(『マナーポスター200』帝都高速度交通営団、1991年:189頁)。 2011年度にも自然シリーズは掲出されているが、以降はイラストが主体となる。自然シリーズの意図は、マナーを大きな字で注意するのは野暮であり、ふと気付いてうなずくようなものにするためだという。その結果、モデルやキャラクターの有名性や広告制作者の作品性を用いて目を引き、マナーを説得するという表現はすくなくなる。 初期のポスターには「コラッ坊主! 靴を脱げ」(1976年3月)と書かれたものがあるが、この文言は問題となり、クレームも寄せられた。ただし、「気合の入った注意」という意見も含めて、大筋はよくやったと好意的だったという(河北秀也『元祖! 日本のマナーポスター』グラフィック社、2008年:63頁)。こうしたエピソードには、進んで注意するような「積極的関与」を求めるコミュニケーション様式が、この時期に残存していたことを感じさせる。 しかし、その後、押しつけがましさを感じさせる表現は避けられるようになり、1990年代になるとマナーポスターの表現自体も暗示的なものになる。とくに自然シリーズは、送り手が受け手を説得し、特定の人間がメッセージを発するのではなく、自然・動物という存在を通じて受け手に読解を委ねている。有名人などのヒトの指令を介在させずに、自発的な反省をあてにしてマナーの順守を促す。 メッセージの送り手の存在をあいまいにして、押しつけがましさを除去しながら、乗客みずから進んでマナーを理解し、実践する――これもまたマナーのセルフ・モニタリングの推奨の一環といえるだろう。こうした手法は2000年代になっても踏襲され、定番化している。たとえば、「『自ら考えて』命令口調減る」(『朝日新聞』2009年3月1日)という記事でも紹介されている。同記事では、マナーポスターの「命令口調は減り、イラストやユーモアを混ぜたソフト路線が目立つ。乗客自身の問題としてマナーを考えてもらおうと、鉄道路線は試行錯誤を重ねている」というが、それはマナーポスター作成当初からの課題であった。 連載記事<「胸をあらわ」にして電車を降りようとする母親の姿も…「大正時代」の路面電車の「今では考えられない光景」>もぜひご覧ください。
田中 大介