マツダ・ロードスターが“自動運転”になる日
自動運転とスポーツカー。普通に考えて相性が悪い。普通に考えれば、機械任せに運んでもらいたい人はスポーツカーになんて乗らないだろう。たぶんこのタイトルを見て「そんなことになっちゃ困る」と思った人が大半だと思う。 <東京モーターショー>日産とベンツにみる「自動運転」観の違い ところが、それがなるほどと思える様なことをマツダは考えている。相変わらす変わった人たちだ。そして第一印象が「そんな馬鹿な」であっても、話を聞いた後になると正論で正攻法に思えるから不思議だ。
スポーツカーに乗ることの心理学的意味
スポーツカーに乗るのは、そもそもなぜなのだろうか? 色んな理由がある。クルマの世界の人たちが言いそうなことは、見当が付くが、心理学者はどんなことを言うのだろうか? この話の大きなヒントとなるのが、アメリカの心理学者、ミハイ・チクセントミハイが1990年に記した『フロー体験』(日本語版は1996年刊 世界思想社)である。 チクセントミハイは、人の行動のもっともポジティブなあり方を「フロー体験」と名付けた。それは人が明確な目的に対して専念と集中ができる状態において、状況や活動を自ら制御している自覚があり、直接的で即座な反応が得られる活動に本質的な価値を見いだすのだという。われわれはこの状態を表すもっと平易な言葉を持っている。「熱中」である。フロー体験は熱中を引き起こす条件まで踏み込んでいる部分が言語的な差異だが、表す状態は熱中だと言っていいだろう。 クルマ好き、特にスポーツカーが好きな人ならば、運転中に自分とクルマが融合し、時間感覚がなくなって、クルマを上手くコントロールできていることが楽しくて仕方がないという体験をしたことがあるだろう。こういう「熱中状態」こそがチクセントミハイの言うフロー体験である。しかも嬉しいことにチクセントミハイは、それを「人間にとって本質的な価値」だと言うのである。つまりスポーツカーの運転は人間にとって本質的に価値がある行動だから、人はスポーツカーに乗るのである。 しかし、チクセントミハイはこうも言う。「フロー体験が得られるのは自分の能力に対して適切な難易度のものに取り組んでいる時である」。問題はこの「適切」だ。例えばゲームの多くもこのフロー状態を体験できるものの一つだろう。パラメーターをいじって、あまりにもイージーモードにすると、簡単過ぎて面白くない。それは自分の能力に対して適切な難易度ではないからだ。逆もまた同じで、近年「無理ゲー」という言葉でお馴染みの様に、どうやってもクリアできるとは思えない難しいゲームではフロー体験は得られない。クルマをそれなりの難易度で走らせている時、それを制御しきったことがフロー体験となって幸福感が得られるのである。 しかし、クルマはゲームとは違う。制御に失敗したら他人や自分に危険が及ぶ。古くからスポーツカーに対して行われてきた批判はここに立脚する。「危険ではた迷惑な行為である」と言われてしまうわけだ。