「良い、悪い、じゃなくて面白いと言ってくれた師匠」柳家はん治インタビュー
ぴあがスタートした落語の動画配信サービス「ぴあ落語ざんまい」の月間視聴回数ランキング「2024年4月」で第1位に輝いた落語家、柳家はん治。2000演目以上の演目がアップされているサブスクリプションサービスにおいて、会員の皆さまから高い人気を獲得しているはん治師匠のインタビューをお届けします。 【全ての画像】柳家はん治インタビュー写真
──落語家になるまでの経緯を教えていただけますか。
高校ぐらいまでそんなに落語を聴いてないんですよ。あんまり興味がなかったけど、受験浪人をしましてね。亡くなった(古今亭)志ん朝師匠がパーソナリティの『深夜営業』という番組が夜中の1時からやっていて。そこで志ん朝師匠が選んだ、過去の昭和の名人たちの落語を流していた。勉強が嫌で嫌でしょうがないですからね(笑)。ラジオをつけるとそれが流れて面白いんですよ。志ん朝師匠のお父さんで五代目名人の(古今亭)志ん生の『三軒長屋』をやったんですよね。のめり込んじゃって、それからやたら落語を追いかけ始めて。いろんな方を聴くようになって寄席にも通うようになって。そのうちにまかり間違ったか、うちの師匠(十代目柳家小三治)の門を叩いてしまった。よせばいいのにプロになろうなんてことを真面目に考えちゃった。入ってみて大変な世界だったのがやっとわかりましたけど(笑)。 ──ご自分で落語をやってみたいと思った具体的なきっかけは。 大学に行って、落研(落語研究会)もあったんですけどね。“なまじ素人で落研の皆さんのように自分でやらないほうがいい”、“もし本当にプロになるなら変な癖をつけてもいけない”みたいなことがそれらしい本に書いてあったんですよね。ですからそれはやらずに、入門するならどの師匠のところに行こうかなあと。寄席に行ってるうちに小三治師匠に出会ったんです。それから師匠を追っかけるようになって。出待ちして、最後には師匠のうちまで入門をお願いに伺って。1週間ぐらい通ってやっと話を聞いてくれて、しばらく試しにということで“ご両親呼んでらっしゃい”ってことで。それでおふくろ連れ立ってお願いに行った。それが昭和52年ですか、22歳のときに入門して。で、今に至ると。 ──何が決め手でしたか。 やっぱりね、好きですね。うちの師匠の、なんていうのかな、落語もそうですけども人柄ですかね。真面目そうで怖いけど“まっすぐ”っていうかね。もう完璧に見抜かれてますね。そこに魅かれました。 ──師匠に弟子入りしてから、思い出深いエピソードを教えていただけますか。 いっぱいあるんですけどね。初めて教わったのが『道灌(どうかん)』という噺で。柳家一門は大体『道灌』から始まるんです。うちの師匠も、師匠の小さんから『道灌』を習った。僕のすぐ上に、もう亡くなったんですけども喜多八という兄さんがいて、ふたりで前座をやってるときに小三治師匠からその噺を教えていただいた。一生懸命覚えて、まだ見習いでしたから、なかなか初高座なんて上げてくれなくて。入門してその翌年だったかな、大学の学園祭があった。うちの師匠がゲストで行って、その前に前座で上がるということで連れてってもらった。 学生さんが数人、達者な人が出て高座をやったんです。それ初めて聴いたら皆うまいなと思って、ちょっと怖くなってね。師匠に「お前がやりたいようにやってきな」みたいな感じで送り出されて。出て素直にやったんですけども、ドーンと受けたんですよ。“お客さんに受けた”と思った瞬間、噺を忘れて真っ白になってね、一緒に行った兄弟子がその続きを袖から教えてくれてやり直して。うちの師匠がやたらおかしかったみたいで「面白かったよ」なんてこと言ってね、嬉しかったんですけどね。“良い”とか“悪い”じゃないんですよ。“面白かった”というふうに言ってくれたのをとても覚えてますね。 ──ご自分の芸をどのように積み上げてこられましたか。 前座のうちは前座噺ってあるんですけど、だいたい4~5年で二ツ目になると羽織を来て一人前ってことで競争が始まるわけです。前座は楽屋で一生懸命働きながら、二ツ目になるまでに噺を“最低は10は覚えなきゃ駄目だ”、“20覚えなきゃ駄目だ”、厳しい人など“50覚えろ”って人もいるしね。自分でそれなりに準備して二ツ目になるんですけど、二ツ目になると師匠から“好きにやれ”って体よくおもてにおっぽりだされるような感じです。やってるうちにいろんな噺の中でもやっぱり合う合わないとか、好きだ嫌いだとか、だんだん自分のネタの選び方、やり方みたいのも出てくるし、それなりに個性がついてくるんじゃないかな。