<大阪北部地震から1年>被害が大きかった高槻市 地元消防の思い
最大震度6弱を観測した大阪府北部地震の発生から18日で1年。小学校のブロック塀が壊れて女児が亡くなるなどした高槻市では、地震当日に高槻市消防本部(同市桃園町)の消防指令センターに朝から119番通報が殺到した。被害が広がるなか、地元消防はどう対応したのか関係者に聞いてみた。 【拡大写真】ブロック塀が倒れた大阪府高槻市の寿栄小学校付近
発生から1時間以内に140件ほど通報が集中
高槻市は同地震により死者2人、負傷者40人。家屋の全壊や半壊、一部損壊は約2万件。ライフラインもストップし、断水、停電、ガスの供給停止、道路陥没による通行止めなど、多くの被害に見舞われた。高槻市消防本部への119番は通常1日24時間で80件ほどだというが、地震の日は通常の5倍近い382件にも及んだという。 高槻市消防本部の松村賢一次長は「地震直後は出勤してましたので、4階の指令室に行きました。対策本部が設置され、それから2~3日はめまぐるしく、家にも帰っていません。阪神淡路大震災以降、初めての大きな地震でした。まさか高槻市が震源地になるとは思っていなかった」 さらに、当日は382件の119番のうち、発生から1時間以内に140件ほどが集中したという。「要請は、火事なのか、救急なのか、救助なのか、その他なのか、振り分けをしながら、多忙を極めましたが、もし、地震が深夜だったら、また状況が違っていたでしょう」と振り返った。
電話がずっと鳴り続けていた
同じく出勤していた同本部警防救急課・原田辰幸課長は「7時58分ごろ、グラグラっときまして。これは尋常ではないな、と。そのあと、119番の入電は10台で対応し(通常は5台)、10人で119番を受けていました。最初の1時間は大変で、電話がずっと鳴り続けていました」と振り返る。 この日は、出勤途中で1時間ほど電車の中で動けなかった職員がいたり、レンタルサイクルを借りて出勤した人がいたり、徒歩で来た職員もいたという。
「初動の段階では訓練通りのことができていたと思います」
「私はその日、ちょうど公休日にあたっていて、朝は自宅でゆっくりしていたんです」と話すのは、同本部指令調査課・長束幸仁主幹(消防司令長)だ。 「凄い揺れだったので、テレビをつけたら大きな地震だとわかり、バイクで出勤しました。その間、倒壊家屋など情報収集しながら、被害状況を見て、すぐに指令室に入って119番の対応にあたりました。とにかく、午前中は大忙しでした。1週間経ってから瓦が落ちているとか、壁にひびが入っているとか、そんな電話が増えました」 高槻市は市長が率先して全市民を対象とした大防災訓練を実施するなど、防災意識は高いが、それでも、地元消防は初めての経験で混乱も当然あった。だが「初動の段階では訓練通りのことができていたと思います」と松村次長は言った。