「ある国の役員が審判に贈り物を…」 男・山根明の息子が明かすボクシング業界の闇と「山根騒動」の裏側
「オヤジを逆恨みしていた勢力にハメられた」
明氏にとってのボクシング界の地盤、奈良県の選手を身びいき審判していると批判された“奈良判定”についても、 「たとえば当時、疑惑の判定の象徴とされた中嶋一輝選手(30)の試合。彼は3ラウンド目でダウンしてしまいましたが、それまでは質のいいパンチを何発も入れていた。アマチュアの採点方法は、どれだけターゲットエリアに質のいいパンチを入れたかです。全体で見れば彼は順当に勝っていたのに、ダウンしたところだけを不当に切り取られ“奈良判定”だと揶揄されてしまったのです」(同) しかし、連盟の第三者委員会は18年9月、明氏の影響で不正な審判が一部に存在したと認定。実際、明氏本人が“奈良判定”を促したように聞こえる録音も残されていたが、 「オヤジは“負けを勝ちにしろ”とは言いませんでした。“接戦だったらオレの顔を立てろ”と本音が漏れてしまうことはあったと思いますが、八百長はなかった。当時の“山根騒動”はクーデターで、オヤジを逆恨みしていた勢力にハメられたんです」(同)
「後から間違いに気付いた」
スポーツライターの小林信也氏は、 「6年前の騒動の渦中では私も、山根さんが一方的に悪くて、彼を追い出せばボクシング界が良くなると思い込んでいました。ところが、山根おろしの実態は一部の人間による権力闘争だったと、後から間違いに気が付いたのです。果たして今の連盟は正当なのか。功罪ともにあったでしょうが、少なくとも山根さんはボクシングへの本物の情熱をお持ちだったと思います」 現在の連盟の内田貞信会長(51)に聞くと、 「あの頃、山根会長に不満を抱いていた人間は大勢おり、複数のグループに分かれていました。クーデターがあったという認識はございません。私自身は山根会長を追い出すつもりなどさらさらなく、連盟が正常な競技団体になってほしいと考えていただけで、会長職は推薦されて引き受けた結果に過ぎません」
「半年ほど車上生活を送ったことも」
朝鮮半島出身の両親のもと大阪府堺市に生まれた明氏は、30代で奈良県のボクシング連盟の強化を任され、そこでの成功を足掛かりに出世していった。だが、ボクシングでカネが稼げるわけもなく、活動および生活の費用は、2人目以降の妻や昌守氏に頼っていた。 「私の母はオヤジの最初の妻でした。子どもながら鮮明に覚えていますが、私が5歳の時に二人は離婚して、そこから半年ほどオヤジと車上生活を送ったこともありました。オヤジがボクシングにどっぷりと浸かり出したのは、私が中学生になった頃からでしょうか。その時はもう2人目の奥さんがいたのですが、彼女は苦労したと思います。昼夜休まずに働き、オヤジの活動のための費用を捻出していました」(同) その後、昌守氏は自動車販売などの実業で才覚を発揮して財を成す。30代前半から17年までの約20年間、明氏の活動を計数千万円出して支える中、昌守氏も日本ボクシング連盟の要職に就いていった。