元福島原発作業員、起業家、ピカチュウ姿のボランティア...戦火のウクライナで生き抜く日本人たちの実話
キーウに30年暮らして
1回目の渡航の時、ウクライナの支援グループを通じて紹介されたのが、日本人女性のKさんだった。ウクライナ人男性との結婚を機に1995年から30年近く、首都キーウ(キエフ)の中心部で暮らしている。 戦争が始まった当初、Kさんがとにかく困ったのが食料不足だった。ミサイルの警報サイレンが鳴ると、スーパーや商店は全て閉まり、客も全て外へ追い出される。どの店も1日数時間しか営業できない状態で、行列に並ばなくてはいけない。食料が足りず、夫と愛犬で少ない食事を分け合った。 日本人のKさんは、もちろん逃げようと思えば逃げられた。しかし出国できない夫と犬を残して日本に行くことは考えられなかった。 「夫の支えと私自身の努力で、ウクライナ語とロシア語を覚え、日本よりも長く生活をしてきた」と、Kさんは言う。「ウクライナは私にとっては第2の故郷であり、日本での生活以上に重要になっています」 Kさんの目に映る、戦争開始後のウクライナ人の最大の変化はウクライナ語を話す人がとにかく増えたことだ。侵攻以前は多くがロシア語をしゃべっていて、むしろウクライナ語をしゃべったり勉強している人は「変わった人」という扱いを受けていた。ウクライナ語をほとんど話してこなかった高齢者は今、ロシア語でロシア批判をしている。 「300年以上にわたってロシアはウクライナを敵視し、圧迫してきました。この長い歴史を振り返ると、仲の良い兄弟でも、友好的な隣国でもないのです」と、Kさんは言う。
ピカチュウ姿で人道支援
ウクライナを出国した後、ポーランド南部クラクフの同じホテルで偶然出会ったのが、ウクライナ東部に向かうところだった中條秀人さんだ。中條さんは22年4月にウクライナ入りして以来、約2年間にわたって人道支援活動を続けている。ピカチュウの着ぐるみを着て活動していることで知られ、現地での呼び名は「ピカ」だ。 着ぐるみを着るようになったのは、ウクライナでピカチュウは誰でも知っているキャラクターと聞いたから。最初はとにかく不審がられ、戦時中なのに不謹慎とかばかにしていると言われた。ただ、子供たちはとても喜び、次第に親や周りの大人たちも受け入れてくれるようになった。 日本で建築関係の会社を経営し、安定した暮らしをしていた中條さんがウクライナに来たのは、幼少期の虐待によるトラウマをスポーツで乗り越えた自分の体験を、戦争で心と体に傷を負った子供たちに伝えたいという思いからだ。 まず西部ウジホロドで避難民支援をした後、支援物資を届けるキャラバンを結成してハルキウ州、ドンバス地方、ヘルソン州など前線地域を回り、22年8月には一般社団法人「ウスミシュカ(ウクライナ語で笑顔)」を設立。避難施設の運営など現地に寄り添った活動を始めた。そこでは避難先で生活するのが難しい障がい者など、社会的弱者の人々も受け入れている。 前線地域で人道支援活動を手伝ってくれているウクライナ人の学生から、「僕もピカのように人に与え続ける人になりたい」と声をかけられた。「憎しみや恨みの連鎖ではなく、恩返し、思いやりや優しさの連鎖になっていることがうれしい」と、中條さんは言う。