【動画】元関西テレビの桑原征平アナ、定年退職から10年。「征平の挑戦」はまだまだ続く/大阪
定年退職しても、ずっとしゃべりっぱなしや―。「征平さん」の愛称で知られる桑原征平アナウンサー(70)は、関西テレビ(関テレ)を定年退職してからの10年間、大阪芸術大学教授やラジオのパーソナリティで新境地を開いてきた。 全国ネットのワイドショー司会から、ライオンに襲われたりもした「征平の挑戦」で視聴者をクギ付けにしたあのパワフルさは健在。現在も「あと50年はしゃべりまっせ~」と強い意欲をみせる征平アナの素顔にせまった。
酒問屋へ就職、休憩中に見た新聞がきっかけでアナウンサー応募
1944年5月14日生まれの京都府出身。学生時代から競泳の選手として活躍。中学生の時には、バタフライで5年間、同府内の中学生記録保持者となったり、京都西高校時代には府の代表になったことも。 そして、成城大学に入学すると水球選手として活躍。卒業後は大阪市内の酒問屋へ就職し、水球の社会人クラブ全日本選手権では、選手として日本一に輝いた。 しかし25歳の時に転機が訪れた。酒問屋の営業中、休憩のために寄った喫茶店で読んだスポーツ紙の「関西テレビアナウンサー募集」の文字が目に入り、中途採用試験を受けることに。「標準語を話すのが条件やったけど、面接で欠点を聞かれて『標準語が話せない』と答えてなぁ」。だが、当時の試験管に「おもしろい」と声をかけられるなどし、アナウンサーとして採用された。
巨大トドのロデオやライオンにも襲われた「征平の挑戦」
しかし採用されたからといってアナウンサーとしての道は平坦なものではなかった。社屋屋上でのどをつぶすまで大声で練習する日々、時には知らぬ間に誤って締め出し、屋上から助けを呼んだことも。また、アナウンサーとしてとどまれるよう、本来ならADなどが担当する公開放送番組の前説なども自らすすんで担当した。 しかし、そうした努力が実を結び、後に全国ネットの番組「ハイ!土曜日です」に出演。1975年からは、後に自身の代名詞とも言えるコーナー「征平の挑戦」を担当。体当たりのレポートを行い、次第に全国に名前が知れわたった。 記念すべき第1回は、プロ野球の阪急ブレーブスと広島東洋カープが対決した日本シリーズ前に、阪急のユニフォーム姿で広島市内で阪急を応援。カープファンを怒らせるようなプラカードを持ち歩き、街中できついヤジなどを受けた。 しかし、これが大反響を呼び、後には赤いフンドシ姿で巨大トドのロデオやアカプルコでダイビング、米国でロデオ選手権出場や日米プロ野球の入団テスト受験など、国内だけでなく世界各地で様々な挑戦を続けた。 中でも、挑戦の中で視聴者をクギづけにしたのは、米女優が自宅で放し飼いにしていたライオンとプロレスをするという企画で本当にライオンがとびかかってきて、おしりをかまれるというアクシデントに見舞われたことは有名。「いまでも傷が残ってるで」と笑顔で話すところが征平アナらしい。