統合失調症の姉と、彼女を自宅に閉じ込めた両親にカメラを向ける。ドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』解説レビュー
家族の深淵を描いたセルフドキュメンタリー
家族の日常を根底から揺るがす青天の霹靂だったのだろう。四浪したものの医学部に進学するほど優秀だった24歳の姉が突然理解できないことを大声で叫び出した。東京ディズニーランドが開業した1983年の春のことだ。すぐに救急搬送されたが、医学者の父によって「何の問題もない」と退院させられている。 「精神科に連れていく方が心の傷になる。病気だと考えるのは姉に失礼だ」と。だが、症状は治まらなかった。真夜中に幻覚や幻聴で叫び出すこともあった。 「夜が明けるのが怖い。姉が目を覚ますのが怖い。自分も危害を加えられるのではないか」知明さんは当時をそう述懐している。 「いつか通院できたときの症状の記録として」。知明さんが映画冒頭の素材となった姉の叫び声を録音したのは発症から9年後の1992年。2001年にビデオを回し始めてから本作の公開までには実に発症から41年が経過している。 16歳の少年だった知明さんは何本ものドキュメンタリーを手掛けた57歳の映画制作者となられている。その事実だけでも101分に凝縮されたこの作品がどれほど長い時間と葛藤の末にわたしたちの前に提示されたものか。知明さんが文字通り人生を賭して取り組まれた一作なのかがわかる。 「家族の恥部」という人がもっとも他者に見せたくないタブー。そのありのままを曝け出してでも知明さんがわたしたちに問い掛けたかったもの。期せずして認知症の祖母を被写体にした石井秀人の「家、回帰」(1984年)の系譜を継ぐセルフドキュメンタリーとなってしまった本作が他のドキュメンタリーと一線を画す重苦しさを持つ理由はそこにあるといっていい。
カメラが捉える長閑な空気の正体
「危害を加えられたら自分が殺すしかないのか」 一時はそこまで追い詰められていた知明さんは就職を機に家を出ている。会社員を経て映画学校で学んだものの、家族にカメラを向け始めた34歳の知明さんはまだ映画監督ではない。本作に記録された映像の多くも公開を前提に撮影されたものではないだろう。ならば知明さんはなぜ家族を撮ろうと思ったのか。何を撮ろうとして来たのか。何のために、そして誰のために撮り続けて来たのか。 「このままだとなんの記録も残らないと思った」 知明さんはナレーションでそう語っている。 「記録」――18年間、姉の病気を放置し続けている両親の「間違い」を証拠として残しておく。自分は病院に連れていくよう何度も伝えたことを記録しておく。そんな思いを感じた。 冒頭の音声にあったような姉の叫び声やそれに翻弄され狼狽する家族といった、ある種の戦場のような衝撃的な映像が続くのではないかと身構えた。だが、知明さんが2001年から家の中で回し始めたカメラに映っていたのは拍子抜けするほど、ごく普通の家族の団欒だった。のろまな日溜まりで笑っている家族の日常だった。 カメラを向けているのが外部の第三者ではなく、家族の一員だからなのか。「ホームビデオだから」と言われて体裁を繕っているからなのか、両親はとてもリラックスしてインタビューに応じているように見える。だが、見続けるうちにそこに漂う長閑な空気の正体に気づき、戦慄した。