鎌倉3代将軍・源実朝の部下を許す力、畠山重忠の息子の謀反にどう対処した?
■ 「厳しさと優しさのバランス」 「あの法師(重慶)の叛逆の企ては、疑いなし。生け捕りは容易いことですが、鎌倉に連行すると、幕府に仕える女官どもが助命嘆願し、結局は罪は許されてしまうだろう。自分はこのように思っていたので、重慶を殺したのだ。このようなことでは、今度、誰が将軍に忠義を尽くすだろうか。将軍家(実朝)は間違っている。右大将(頼朝)の時代は、勲功ある武士に、褒美を多く与えるように厳しく仰っていた。が、私は「それがしが、頂戴したいのは、鏑矢。それでもって、東海道15ヶ国において、民の無礼を糺すことです」と言上した。すると、忝くも、鏑矢を頂いた。その鏑矢は家宝となっている。それが、今の将軍(実朝)はどうだ。歌や蹴鞠に精を出し、武芸は廃れたも同然。女性を重用し、勇士なきが如し。没収された土地も、勲功ある武士には与えられず、多くは女性に与えられている」 これは、将軍に対する暴言と言って良いでしょう。この他にも宗政は、過激な言葉を吐いたようですが、それは『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には収録されていません。宗政の暴言に、源仲兼は、一言も発することなく、席を立ったといいます。 仲兼が、宗政のこの暴言を全て実朝に報せたのかは分かりません。しかし、暴言を吐いたことくらいは、伝えたのではないでしょうか。宗政は重慶誅殺により、謹慎を命じられていましたが、そこにまたこのような暴言。更に重い罰が科されそうですが、驚くことに、同年閏9月16日、宗政は宥免(罪を許されて)されているのです。 『吾妻鏡』には、小山朝政(宗政の兄)の「申し請け」によりとありますので、朝政から弟を許してくれるよう嘆願があったのでしょう。朝政は有力御家人であり、幕府宿老というべき存在でもあったので、それで許されたのでしょうか。それにしても、命令に違反し、なおかつ暴言を発したものを簡単に許すとは、実朝も度量があると言えます(宗政に重罰を科すと、小山氏が反発し、ややこしい事態になると踏んだのかもしれません)。 ビジネス戦略や組織論を専門とするマーケティングコンサルタントの鈴木博毅氏は、マキャベリ(15世紀、イタリアの政治思想家)の著書『君主論』を素材として「頼られるリーダーは9割冷酷、1割優しい」(『東洋経済オンライン』2016・6・7)との論考を発表しています。 その中に「冷酷さも同じで、仕事のための9割の冷酷さを貫く君主(上司)は、珍しく見せる優しさが部下の大きな印象に残ります。きちんと叱る、先を見据えて動き甘えを許さないという2つの冷酷さを使いこなす上司の部署は、トラブルが少なく、問題を事前に解決し、みんなが緊張感を持って働く良い職場とも言えます」との一文があります。 冷酷で厳しいだけでもいけない。かと言って、甘く優し過ぎてもいけない。「厳しさと優しさのバランス」は難しいものではありますが、実朝は当初は怒っても、誰かの取りなしにより、その者の罪を許すということを何度かしています。そうした意味で、バランスのとれたリーダーだったのではないでしょうか。
濱田 浩一郎