Hedigan’sが語る、5人で過ごした特別な時間を記録した1stアルバム
バンドという形態のひとつの理想。活動を開始してまだ1年と数カ月だが、Hedigan’sにそのような印象を抱く人は少なくないだろう。河西“YONCE”洋介、栗田将治、栗田祐輔、本村拓磨、大内岳。様々なキャリアを積んできたバンドマン5人がそれぞれのクリエイティビティを解き放ち、とことん楽しみながら融合させて「音楽」にする。そこに作為や計算は介在せず、自分たちの面白いと思う音楽を自由に鳴らすことに対して彼らはどこまでも純粋で誠実なのだ。「ただ素直に音楽で幸せになろうとしている」。これはインタビュー中のメンバーの言葉だが、聴き手にまでそのことがこんなにも伝わってくるバンドはちょっと珍しいかもしれない。 数多くのイベントやフェスに出演しながらライブバンドとしての個性と強度を高めていったHedigan’sだが、作品としては2月にEP『2000JPY』を、そして11月に1stアルバム『Chance』をデジタル・リリース。ライブを観ずして語ることのできない(像をつかみ取ることのできない)バンドではあるが、『2000JPY』から『Chance』への音楽性の拡大と跳躍加減も鮮烈で、この先例えばビートルズ後期作品のように長く残り続けるアルバムを生み出しそうな予感さえしてくる。 『Chance』は2025年1月15日にCDリリースもされるが、そのDISC2にはバンドがHedigan’sと名乗るようになって初めて行なったライブ「EPOCHS ~Music & Art Collective 2023」の音源がフルで収録される。というわけで、そのEPOCHSの話からインタビューを始めよう。 ―結成のきっかけについては既にいろんなところで話されているでしょうから、今日は聞きません。それよりもまず、この1年ちょっとでHedigan’sがライブバンドとしてどのように進化していったかを確認しておきたいと思います。初めてライブをやったのはいつですか? 本村拓磨(以下、本村):2023年の岳の誕生日だったね。 大内岳(以下、大内):そう。7月8日。 栗田将治(以下、将治):下北沢のライブハウス(Basement BarとTHREE)でやった岳ちゃんのバースデイ・イベントで、岳ちゃんがやっている8組のバンドが全部出て。 大内:2カ所を往復しながら全バンドで叩いたので、ひとりだけフニャフニャになりました。 将治:そのときはまだHedigan’sと名乗っていなくて、シークレットみたいな感じで出たんですよ。で、バンド名を発表して正式にやったのは、軽井沢のEPOCHS(「EPOCHS~Music&Art Collective~」。Hedigan’sの出演は2023年10月1日)が最初。 ―そのときにもう手応えがあった? 本村:すごく確かな手応えを感じました。導かれるようにというか、何も考えなくても勝手にカラダが動くライブっていうんですかね。 ―「息が合ってるな、オレたち」みたいな。 本村:それすらも思わず、何も考えないでやれました。 栗田祐輔(以下、祐輔):初めて広い会場で音を鳴らして、自分はこのメンバーみんなすごいなって思っちゃいましたね。みんなすごいミュージシャンだなぁと。 将治:ああいう大きな野外フェスに出るのは自分は人生で初めてだったし、あんなに大勢のお客さんの前で演奏するのも初めてだったから、やるまではどういう感じになるのかわからなかったけど、とにかく一生懸命演奏して全力で楽しもうと思って出たのを覚えてます。それはそこからの1年間、ずっと思ってきたことで。会場の大きさに関係なく、これからもそういう気持ちを持ちながら続けていきたいし、こなれたくないなって思いますね。 大内:Hedigan’sと名乗って最初のライブがあんな大きな会場で、しかも確かトリの前。人が一番集まっている時間帯だったから緊張してもおかしくなかったんですけど、僕はそんなに緊張しなくて、すげえ自然に進んでいった。そもそも自分のルーツはOLD JOEなので、河西がボーカルで自分が叩くというのは勝手知ったる感じだったし、みんなの演奏もしっくり肌感に合って、最初から楽しかったです。 ―それから都内のイベントなどにどんどん出るようになり。 河西“YONCE”洋介(以下、河西):しれっとブッキング・イベントとかに出たりしてました。TOKIO TOKYOで12月にやったやつ(「amber」)も岳がもってきた話だったよね。 大内:そう。僕のやっているGlimpse Groupとの対バンで。 ―2024年の2月には初の東名阪ツアーがあって、東京はROTH BART BARONをゲストに呼んでの渋谷クラブクアトロ。自分が初めて観たのもそれなんですけど、そのときは本村さんの代わりに井上真也さんがベースを弾いていて。 本村:ライブをやっている間、僕は部屋で坐禅を組んでました(笑)。 河西:部屋から真也くんに思念を送って(笑)。 本村:ははは。実際は体調不良でほかのバンド含めてお休みしていた時期だったんです。話が飛びますけど、その後体調がよくなって連絡したときに「久々にDIG(栗田兄弟が運営している埼玉県本庄市のレコーディング&リハーサルスタジオ。Hedigan’sもここで制作)に遊びに来たら?」って言われて、行ったら「せっかく来たんだから、なんかやろうよ」ってことで、すぐに音出して、曲のアレンジをして。それが今回のアルバムに入っている「マンション」なんですけど。 ―そうなんだ?! 思い返すとあの時期のライブはまだ戸惑っているお客さんが多かったですよね。クアトロの約1週間後には、ぎがもえかさんとの2マンを渋谷WWWで観ましたけど、Suchmosのファンらしき人たちがYONCEの新しいバンドってことで観に来ていて、演奏が始まったらなんか呆気に取られている様子で。 河西:「こ、これかぁ…」って(笑)。オレらも2月のクアトロとか3月のWWWのときは、呆気に取られながら観ている人がいたねって話してました。でもそれはこちらがコントロールするようなことでもないし、来たくて来ていることに変わりはないから。 祐輔:いい悪いの話じゃないんですけど、オレはアウェイ感みたいなものを感じることも多くて。これを悪いふうに捉えないでほしいんですけど、8割か9割はSuchmosのYONCEの続きを観たいという人だったと思うんですよ、特に初めの頃は。オレはそれに貢献する気持ちではやってないし、そういう気持ちでやることのほうが失礼だと思うから、それをいい刺激としてやりたいようにやっている、ってところはありますね。 ―戸惑っている人には、むしろ「戸惑っていいんだよ」と。 河西:うん。期待に応えることをするのが仕事ではないから。「わけわかんなかったな。でもなんか面白かったな」って反応をされるのが、今のところいいような気がしています。 ―本村さんがバンドに復帰して、5月からは怒涛のフェス連戦が始まりました。 本村:めっちゃ、やったっすね。5月だけで4本くらい出たんじゃなかったっけ? 河西:そうだね。OTODAMA、VIVA LA ROCK、FUJI&SUN、GREENROOM……。 本村:GRAPEVINEに誘われてザ・ガーデンホールでやったりもしたし。ライブラッシュで、経験値が上がったね。 将治:荒稼ぎしたよね(笑)。 ―FUJI&SUNで観ていて思ったのは、その場所の景色とか空気感といったものを味方につけて演奏するバンドだなということで。 大内:ああ、確かにロケーションだとか、自分の眼前に広がっているものをすごく意識して演奏している気がします。お客さんというよりも、その空間を。 本村:そうだね。昨日のライブもそうだった。昨日はYONCEくんの地元の古着屋さんの10周年記念パーティーがあって、倉庫というか、小屋の一画みたいなところでライブをやったんですけど、そういうところで密着しながら演奏するのが久しぶりだったわりにはすごくうまくいった。自分はどんなところでも演奏できるバンドというのが一番かっこいいと思っていて。誰かの家でも、用意されたでかいステージでもやれるバンド。それを引き続き目指したい。 大内:会場の大きさが気にならないバンドというか、えらそうな言い方になっちゃいますけど、どっちでもできるのは当然みたいなところもあって。けっこうみんな逆境を経験してきた人たちだから。例えばアリーナクラスでやれるバンドでも、このくらいのサイズは逆に苦手とかってあると思うんですけど、そのあたりはなんか自信がありますね。