「大東亜戦争」「太平洋戦争」 日本は「あの戦争」とどう向き合う
「先の大戦」「大東亜戦争」「アジア太平洋戦争」。日本は戦争の歴史にどう向き合ってきたか。国立公文書館アジア歴史資料センターのセンター長を務める、筑波大学名誉教授の波多野澄雄さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】 【写真】首相官邸に入る幣原喜重郎首相(当時) ◇ ◇ ◇ ◇ ◇「被害者」の思いが強かった ――日本はどう向き合ってきたのでしょう。 波多野氏 アジア歴史資料センターをはじめ、日本政府はさまざまな事業を積み上げ、アジア諸国に対する賠償も誠実に履行してきました。 ただ、戦争の犠牲者への償いという点では、他国の被害者より日本人の方が手厚かったと言えます。軍人恩給が典型的です。日本人優先主義がどこかにあります。 民間も同じ部分があります。1960年代ごろから、アジアの他国の犠牲者にも目を向けなければならない、日本人は被害者であるだけではなく、加害者でもあるという考え方は出てきましたが、それでもやはり、日本人は被害者だという思いが強かったのです。 ◇語らなかった兵士たち ――記憶が共有されませんでした。 ◆特に中国との戦争です。中国から復員してきた兵士たちは戦場の体験をほとんど語りませんでした。 私の父も下級兵士として6年も中国戦線にいたのですが、敗北感も加害者意識もなく、中国人と協力して新しい中国をつくるために戦ったのだ、とよく言っていました。敗北体験が乏しい兵士が多かったことも事実です。 また、戦場は中国大陸だけでなく、太平洋から東南アジアに及んでいました。敵の性格も戦いの性格も異なり、兵士の戦場体験も異なっていました。日本の戦争の歴史への向き合い方がなかなか定まらない原因の一つです。 ◇中止された政府による検証 ――戦後すぐに戦争の検証の試みがありました。 ◆政府と民間で検証しようとしたのが、幣原喜重郎内閣で作られた「大東亜戦争調査会」(45年11月設置、のちに「戦争調査会」に名称変更)です。首相を会長に、当時の代表的な知識人や政府関係者が参加し、資料収集と分析を進め、各部門に分かれて議論しました。しかし翌年秋、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で中止されました。 続けていれば相当の成果が出ていたと思います。世界恐慌の影響、軍部の政治的台頭のきっかけ、政党政治の衰退の原因など、今でも歴史学で議論になっているテーマが広く取り上げられています。 戦争責任よりも開戦責任が重視されていたのですが、政府が遂行した戦争について、政府自身が真剣に総括する試みを受け継ぐことができなかったのは、今から考えると惜しまれます。 ――もし、サンフランシスコ講和条約後に、政府が戦争の総括をしていれば、戦争責任の問題も含まれたはずです。 ◆日本人の戦争責任観、あるいは政府が戦争責任をどう考えるかという点で一番、問題だったのは講和条約です。英国は戦争責任を明記した案を作ったのですが、米国が反対し、結局あいまいな条項になりました。第11条(戦争責任条項)です。 すでに終結していた戦争裁判(東京裁判やBC級裁判)を平和条約にどう位置づけるかという点で、結局、裁判の判決の受諾と刑の執行だけを義務づけたにとどまりました。 冷戦下の講和条約は日米合作のようなところがあります。その枠を超えることは、今でも難しいことです。 ◇負の遺産 ――日本の戦後は、米国にばかり目が向いていたようにも思います。 ◆先の大戦は一つの戦争というより、中国との戦争、米国との戦争、旧ソ連との戦争、そして英仏オランダとの戦争の四つの戦場からなる「複合戦争」でした。 四つの戦争の遺産はそれぞれ違います。米国との戦争は原爆投下や沖縄の問題、旧ソ連との戦争はシベリア抑留や領土問題、英仏オランダとの戦争は捕虜問題があります。しかし、一番大きな負の遺産は中国との戦争です。 ◇お互いを知った共同研究 ――波多野さんは日中両政府による日中歴史共同研究(2006~09年)にも関わられました。 ◆私は日中戦争期を担当しました。この時期の歴史認識に関して大きな溝があることは、はじめからわかっていました。 それでも膝を交えて話をすることで、単に中国側の主張を知るだけではなく、その背後にある考え方や歴史の見方、共同研究の成果を一般に公表する場合の大きな壁を知るのに、またとない機会となりました。 ――むだではなかったということですね。 ◆もちろんです。共同研究も定例化すべきだったと思います。あるいは歴史問題に関する議論のための開かれた枠組みとして発展させる方法もありました。事業が終われば問題が解決するわけではありません。これは日中に限ったことではありません。(政治プレミア)