1年夏で「高校野球は終わった」と悟った江川卓の控え投手は、公式戦わずか16イニングの登板で大洋から2位指名を受けた
連載 怪物・江川卓伝~控え投手・大橋康延の矜持(前編) 球数制限と投手複数制を推奨している現在の高校野球と違い、かつてはエースがひとりで投げ抜くのが当たり前の時代だった。そのため控え投手にスポットが当たることなど、皆無に等しかった。作新学院のエース・江川卓の控え投手もご多分に漏れず、陰に隠れた存在だった。 【写真】美女ぞろいの巨人マスコットガール「VENUS」新メンバー12人フォトギャラリー(40枚) ただ江川の控え投手は、高校3年間の公式戦で16イニングしか投げていないにもかかわらず、1973年のドラフト会議で大洋(現・横浜DeNA)から2位指名を受けたのだ。高校時代の控え投手が大学や社会人に進んで力をつけ、ドラフト1位で指名されるケースはあるが、公式戦の実績がほとんどない投手が高校時に2位で指名されるなど、異例中の異例だった。 【初めて自分より上の者がいる】 江川の控え投手の名は大橋康延。182センチ、84キロのアンダースロー投手だ。相当な野球通でもない限り、その名を記憶している人は少ないだろう。 「(江川が)1年夏の烏山戦で完全試合をやった時、高校野球は終わったと思いました」 大橋はそう断言する。 小山二中時代、「サブマリンの大橋」と県下に名を轟かせ、高校進学にあたり強豪校がスカウト合戦を繰り広げた逸材である。 「えっ、なんでいるんだよ?」 大橋は入学式で、思わず声を上げてしまった。新入生のなかでもひと際目立つ大きな体。その男こそ、1年で大橋の高校野球を終わらせた江川卓である。 大橋の持ち味といえば、アンダースローから浮き上がるストレートとスライダー。その原型がつくられたのが中学時代である。60年代後半から70年代にかけて、小川健太郎(中日)や足立光宏、山田久志(ともに阪急)といったアンダースロー投手が頭角を現したことが影響したのか、コントロールの悪かった大橋はオーバースローからアンダースローに転向した。 そもそも大橋と江川の接点は1970年、中学3年に遡る。その年の春、隣町の小山中がいきなり快進撃を始めたので調べてみると、静岡からすごい転校生が入ってきたことがわかった。 そして8月、栃木県中学校総合体育大会(中体連)の2回戦で、小山二中と小山中が対戦することになった。大橋と江川の投げ合いは1対1で迎えた最終回の7回裏、江川がサヨナラランニング本塁打を放ち、小山中が勝利した。