その時、神話は生まれた── 当事者たちが振り返る 1992年のデイトナ24時間レース 日本人チーム優勝への意地とプライド
■デイトナのコースはル・マンよりもずっと過酷だった
デイトナ特有のバンクもドライバーを苦しめた。 ル・マン24時間レースは1チーム3人だが、デイトナは1チーム4人のドライバーが認められているのだ。この違いが、デイトナの過酷さを物語っている。 「昔の富士の30度バンクのようにすり鉢状じゃないんです。平らな路面だからタイヤに過度に負担がかかってくるんです。そして横Gだけでなく、上下Gも強烈でしたね。腕でマシンを押さえつけながら走ったのですが、10周ほどで手の皮がむけてしまいました。また、狭い視界の中で視線をバンクの先に向けなければならない。他車に当てられないように気をつけましたが、バンクの中で『バーストしたらどうしよう』と考えたこともしばしばでしたね」 と、鈴木は初体験だったデイトナのバンクを語った。星野も同じような感想を述べている。 「R91CP改はバンクの一番上でカウンターを当てるほど速かったよ。でもバンクでは何度もアクセルを戻しちゃった。40~50km/hも速度差のあるGTクラスのマシンと一緒に走っていると、ラインを争うことはないとわかっていても用心してしまうんだ。デイトナはストックカーのためのコースだから、Cカーだと大変なことが多かった」 難所はバンクだけではない。インフィールドコースはタイトコーナーの連続で、夜は真っ暗なのである。しかもアメリカのアスファルトは白いので、ライトを浴びせると反射して一瞬見えなくなることが少なくないという。 「このレースでは市光工業が開発したHID、ディスチャージ式ヘッドライトを時代に先駆けて採用しているんです。これをアウト寄りの配光にして走った。ル・マン24時間レースは残りの12時間を2人で難なく走りきれるが、デイトナは無理。バンクは腕力を必要としたし、ストレートも短い。そしてタイトコーナーが多いから、ドライバーは休んでいる暇がないんですよ。一瞬たりとも気を抜けない過酷なコースなんです」 と、長谷見はデイトナを攻略することのむずかしさを語る。 ヨーストポルシェが朝を待たずに戦列を去り、2位を走行するジャガーXJR-12Dもペースが上がらなかった。 大差をつけてトップを快走していたが、終盤にドラマが待ち受けている。 ラスト1時間になった時、クラッチが滑り出したのだ。 ドライバーの星野はピットインするなり、最後の大役を務める鈴木利男にクラッチトラブルが発生していることを伝えた。 「流れでボクが最終ドライバーを務めることになったんですが気を遣いましたね。星野さんは無線で『利男、壊さないように、ていねいに走らせろ。絶対に壊すな!』と何度も言ってくるんです。いや、怒鳴られていましたね。最後はフェラーリのように日産車を連ねてデイトナフィニッシュしたかったのですが、思うようにスピードコントロールできないので苦労しましたよ」 と、鈴木は苦笑する。 ニッサンR91CP改は2位のジャガーを9周も引き離し、762周、4465kmを走って総合優勝を獲得する。 これは日本製のマシンと日本チーム、日本人ドライバーが達成した初の快挙だ。(文中敬称略)
■日産 R91CP改 スペック
・全長×全幅×全高=4800×1990×1100mm ・ホイールベース=2795mm ・トレッド=F)1600/R)1560mm ・エンジン=VRH35Z(V型8気筒DOHC、3496cc) ・最高出力=680ps/7200rpm ・最大トルク=80.0kgm/5200rpm ・トランスミッション=5速