パリ五輪補欠からの快進撃! 世界の頂点に立った“アフロ怪人”山崎賢人「GIとりたい」/競輪祭・インタビュー前編
■進化を求めてナショナルチーム加入 パリ五輪リザーブから、世界の頂点へ ーーナショナルチームで活動を始めたのが19年12月でした。所属に至るまでの経緯を教えてください。 その年の10月のGI(寬仁親王牌)だったかな。中野浩一さんがいらっしゃって、その時にナショナルチームの話になって。「やりたいのか?」って感じで聞かれて「“もう一回”やりたいですね」と言った。それで中野さんを通じてブノワに話をしてもらった流れですね。 ーーその背景にはどんな思いがあったのでしょうか? 競輪学校時代にHPD(※)にいて、そこから一回僕は抜けてしまって。もう一回競技をやりたいなって気持ちがあった。もっと自分が強くなれるんじゃないかなって思ってお願いをしました。 (※)HPD…ハイパフォーマンスディビジョンの略。世界で活躍できる選手を育てることを目的としたトレーニンググループ。選抜された日本競輪選手養成所候補生に対して、ナショナルチーム選手と同様の環境でトレーニングを実施する。(日本競輪選手養成所HP参照) ーーナショナルチーム第二章が始まってから4年間半、パリ五輪を目指してきました。しかし、国内リザーブ(補欠)という結果に。この結果をどう受け止めましたか? うーん、そうですね。なかなか受け入れられず、気持ちが落ちた部分はありましたね。でも、選考期間内の大会で結果を残せず、世界選手権にも出られなかったので(代表選出は)厳しいのかなとは感じていました。
ーー日本は国内選考がハイレベル。外から見ていても、し烈な代表争いだったように思います。 そうですね。みんな強くて、結果をしっかり残していましたから。選考するのは僕じゃないし、目の前のレースでしっかり結果を出さないと選ばれないっていうのは理解していたので。僕が結果を出せなかった、それが全てです。 ーーその時点で、今回の「世界選手権までは競技続行」と決めていたのでしょうか? 選考結果が出るまでは特に決めていなくて。アジア選手権のケイリンで金メダルを獲得したことで、一応、世界選の出場枠はあったんです。「何も出ずに終わってもなぁ…」と思って。あとは負けず嫌いなところが出たというか。「もうちょっと粘っちゃおうかな」と思い、世界選まではナショナルチームで頑張りたい意思をジェイソンに伝えました。 ■競輪復帰と気になる今後の進退は…? ーー国内に残って7か月ぶりに競輪へ復帰。久留米記念(GIII)に出走して見事、優勝。久しぶりの競輪、どんな気持ちで臨みましたか? その時には自分の中では区切りがついていて。競技と競輪は全然違うけど、練習の感じも良かったし、せっかく走る機会をいただいたので結果を残したいと思っていました。優勝はやっぱり嬉しかったですね。前の選手が頑張ってくれて結果的に自分が1着だったっていうだけで、日本の競輪ならではというか「ラインの力」をすごく感じましたね。