「日本」は必ずしも「ヤマト」ではなかった…じつはあいまいな「国名」の不思議な実態
日本文化はハイコンテキストである。 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 【写真】じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
「静かなもの」と「荒々しいもの」
私は相撲が好きです。ラジオ時代の栃若(栃錦・若乃花)のころからずっと見てきました。何がいいかといえば、仕切りまでの「長い静」のあとに軍配が返って「瞬時の動」が激動するのがいい。これは日本です。 呼び出しが扇を開いて東西の四股名を呼ぶと、力士は土俵に上がって口を漱ぎ、塩をまいて、蹲踞の姿勢で相手と見合う。行司も「見合って」と声をかける。こういう静かな仕切りを何度か繰り返しながら、行司の軍配が返った瞬間に、激しい突き押しが始まり、荒々しい凝縮がおこります。わずか数秒の荒々しさのために、数分、ときには控えから数えると十数分の淡々たるハコビがあるのです。 ひるがえって、そもそも日本文化には、茶の湯や生け花や地歌舞のようにとても静かなものと、ナマハゲや山伏の修行やダンジリ祭りのように荒々しいものが共存しています。歌舞伎にも「世話物」があるとともに「荒事」がある。『暫』『鳴神』『勧進帳』『助六』などの歌舞伎十八番はすべて荒事です。市川団十郎家のおハコ(御家芸)ですが、上方の坂田藤十郎家のおハコは「和事」です。 お能には静かで深遠な神能があるとともに、修羅物とか鬼能といわれる激しいものがあり、世阿弥が発明した複式夢幻能では、これらが巧みに配されて途中の「移り舞」のところで切り替わります。象徴的には「神」と「鬼」が互いに入れ替わる瞬間があるのです。「静」と「動」は一対なのです。デュアルなのです。 私は和事のような静かなものも、荒事のような荒々しいものも、どちらも大好きで、この徹底した二つが併存してきたところが日本文化のいいところだと思っています。 もちろんどんな国の文化や芸能にもソフトなものがあれば、ハードなものがあります。クラシック音楽やジャズなどでも、ダンスやパフォーマンスでもそうなっています。 それはそうなのですが、日本では、この「和」と「荒」との併存が、日本の精神やルーツと深く関係しているのです。