七里圭監督「ピアニストを待ちながら」…「出られない図書館」舞台に今を描く、村上春樹ライブラリーで全編撮影
登場人物たちはたくさん言葉を交わすけれど、どういうわけか、芝居のせりふとして口にしている言葉のほうが、本心を語っているように聞こえる。普段は言えない真実を語るためには、どんどんわけのわからないことになっていく現実の正体をつかみ出すためには、人間には演劇という虚構や優れた物語が必要なのだ。そして気がつけば、見ている観客もその一部。図書館という迷宮に迷い込んだ人々が、混とんとした現実を生きる自分たちの分身のようにも思えてくる。
コロナ禍、堆積した過去
コロナ禍、その中での演劇状況への言及をはじめ、この映画は、物語を通じて「現代」と向き合っている。気の利いたつくりの図書館のその奥にある見えないもの――たとえば堆積(たいせき)した過去――にも七里圭監督は確かに触れている。
瞬介に問われて、出目が自分が待つ、ゴドーならぬ「ピアニスト」なる存在について語るくだりがある。その内容は、ドアが開いた時にどこか離れたところから聞こえてくる音、そして、早稲田の「4号館」という名前の場所の記憶と結びつく(学生運動が激しかった1969年、当時の「4号館」で山下洋輔トリオのフリージャズライブが行われ、対立するグループの学生たちが「呉越同舟」でその演奏に聴き入ったという)。
時代は逆流しない。だが、先述の通り、図書館の書架にはさまざまなものが本になって並んでいる。夢も悪夢も、希望も絶望、過去も現在も、そしてきっと未来も。そうしたものをひもとくような感覚を、この映画はもたらす。
目を凝らし、耳をすましてみれば、きっと考えたくなる。私たちは何を待っていて、なぜ、今いる場所から出て行けないのか(あるいは出て行かないのか)、何に縛られているのか。答えは簡単には出ない。でも、少なくとも思うだろう。もういい加減、向き合う時なのだと。
ある接近遭遇
本作は10月12日から東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開となったが、その数日後、同じ映画館で、粟津潔による映像作品「ピアノ炎上」(1974年)が上映された。火のついたピアノに向かって、時代の熱が発火するような演奏をする山下洋輔をとらえた作品。2本の映画はまるで時間の層を織りなしているようだった。それは、その日だけのことだったけれど、また、この2作品が接近遭遇すれば面白いのに、と思う。