日航ジャンボ機墜落事故のとき、村長として救難作業をサポートした「旧海軍を代表する零戦隊指揮官」の戦後の半生
来年(2025)は「戦後80年」、そして「昭和100年」にあたる。太平洋戦争(大東亜戦争)の第一線で戦った将兵は概ね明治末期から昭和初年までに生まれた人たちだったが、約230万人が戦死、民間人の犠牲者を合わせると310万人もが犠牲になったとされている。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! そして、戦争を生き抜いたその世代の人たちは、価値観の一変した世の中に戸惑いながらも、さまざまな分野で戦後の日本復興の礎となった。 ここでは、今年4月に上梓した私の新著『決定版 零戦 最後の証言1』(光人社NF文庫)より、旧海軍を代表する零戦隊指揮官の1人で、戦後は郷里・群馬県上野村村長となり、1985年8月12日、村内に日航ジャンボ機が墜落したさいにはパイロットとしての経験を活かし地元首長として救難作業をサポートした黒澤丈夫氏の「戦後」について紹介しよう。
「日本のチベット」に生まれて
昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便ボーイング747SR(ジャンボ機)が消息を絶ち、群馬県多野郡上野村の山中に墜落、乗員乗客524人中520人が亡くなるという、わが国の航空史上最悪の事故が起こった。 翌8月13日になって墜落地点が判明すると、空陸より現地入りした報道陣によるリアルタイムの報道合戦が展開されたが、そのなかで、現場となった上野村長の事故への対応のあざやかさ、救難指揮の見事さが話題を呼ぶようになっていた。 村長の名は黒澤丈夫(1913‐2011)。大戦中は海軍戦闘機隊を代表する指揮官の1人として開戦劈頭(へきとう)のフィリピンの米軍基地空襲、蘭印(現・インドネシア)航空戦で連合軍戦闘機を圧倒するなど、主に南西方面(東南アジア~西部ニューギニア)を転戦。日本軍が優勢であった緒戦期のみならず、戦争末期にいたるまで、精鋭部隊を率いて出色の戦果を挙げ続けた人である。 黒澤は大正2(1913)年12月23日、群馬県の最西南端に位置する多野郡上野村乙父(おっち)に生まれた。上野村は、南は埼玉県秩父、西は長野県南佐久に隣接する。御荷鉾・荒船連山や三国連山など1000~2000メートル級の山々に囲まれ、険しい山野が村の総面積186.86平方キロの90パーセントを占める峡谷型の山村である。集落は、村のやや北寄りを東西に流れる利根川水系の神流川に沿った谷あいに点在しているが、昭和初期すでに「日本のチベット」と呼ばれていたというほど、交通不便な山奥の僻地だった。 「当時は教育も生活も、いまでは考えられないほど地域差が激しく、私の生まれた上野村は、活字というと学校の教科書でしか読む機会のないような遅れた村でした。しかし、四季は変化に富んで美しく、周囲には広い遊びの天地が待っている。私はこの自然に囲まれた土地で、遊びたい放題の自然児として育ちました」