【怨霊対策】なぜそこまで? 敵軍迫る中での戦没者供養…足利尊氏による伝説の鎮魂大法会
前回記事では、京都・天龍寺が後醍醐天皇の鎮魂を目的に造営されたことを見た(【呪術散歩】室町時代は怨霊対策から始まった…後醍醐天皇の怨霊を鎮めるために造営された大寺院【京都・天龍寺】)。 しかし、時は南北朝動乱の時代。室町幕府の鎮魂政策はこれだけにとどまらない。今回は天龍寺以外の戦没者供養について、早島大祐『室町幕府論』から見ていこう。 (読みやすさのため、改行など一部を修正しています)
全国各地に一寺一塔
まず挙げられるのが、安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)の建立である。足利尊氏・直義兄弟は、日本全国に寺と仏塔を建てる計画を立てたのである。国ごとに一寺一塔を目指したと言われている。 〈当初は建武政権樹立以来の戦没者追悼目的で行われたが、暦応2年〔1339〕の後醍醐の死を契機に事業は大きく推進された(松尾剛次「諸国安国寺考」)。 また同年11月26日には等持院で後醍醐の百箇日供養の曼荼羅供を行い、貞和2年(1346)には石塔8万4000基を建立したという(『師守記』)。〉 康永3年(1344)と貞和2年(1339)ごろには、六斎日の「殺生禁断令」が出された。早島は、ここにも室町幕府の鎮魂政策への態度がよく表されているとする。 〈いくさを事とする武家により、このように殺生禁断令があいついで出された理由としては、やはり戦没者供養の問題が考えられ、これらも幕府の鎮魂政策の一環として位置づけられるだろう。〉 とりわけ、南北朝動乱期の、軍事政権としての性格が強かった幕府の政策として考えると、殺生禁断令に込めた願いの強さが垣間見えるようである。
伝説の大規模法会
このように積極的に戦没者供養を行ってきた足利尊氏であるが、その白眉が文和3年(1354)12月23日に行われた「水陸大会(すいりくだいえ)」である。 〈この日は尊氏母上杉清子の十三回忌にあたり、そのために尊氏は大般若経10巻をみずから書写していた。さらには密教、禅宗、律宗の僧侶たちに『毘盧大蔵尊経』5048巻を筆写させ、三昼夜にわたり法会を開催していたのである(『大日本史料』六-一九、三〇〇頁、以下『大日史』)。〉 「水陸大会」とは、亡き魂の救済と成仏を祈祷するもので、水中・陸上の鬼神を呼び寄せ、供養するという大規模な法会のことだ。あまり聞き慣れないが、それは当時の人々も同じだったようである。この法会の様子を記した軍記物『源威集』にも、「水陸供、其例は稀なり」とある。 当時の日本人にはあまり聞き馴染みはなかったようだが、この法会は宋代から元代にかけて大陸で流行していた。尊氏はこれをいち早く取り入れ、母の菩提供養と戦没者供養に採用したということになる。 さらに、尊氏の鎮魂政策にかける強い意志がうかがえるエピソードがある。 〈じつはこの水陸大会の翌日に足利直冬ら南朝方が京都へ侵攻して、尊氏は近江へ退去を余儀なくさせられていた。すでに南朝直冬の進軍の情報は流れていたが、にもかかわらず、尊氏は、生母の十三回忌とそれにともなった戦没者供養の大法会を優先したのである。 その結果、命からがらに京都を追われる羽目になったのだが、ここに見られる尊氏の選択はまさしく捨て身の敬神だったといってよい。 このように敵軍の侵攻に直面し、自身の生死すらものともしない態度で、尊氏は懸命に怨霊の鎮魂につとめていたのである。〉 尊氏の意志が強かったのか、怨霊をそれほど畏れたのか。 その後の歴史で「逆賊」扱いされたこともある足利尊氏だが、怨霊や死者との関わり方からはまた違う一面が見えるかもしれない。
学術文庫&選書メチエ編集部