大阪ミナミ「外国ルーツの少女」の成長【後編】 父倒れ一人になったタイ出身・女子高生の旅立ち
■互いに楽しいひととき メイにはそんな「普通」の時間が必要なんじゃないか、という控えめな臆測が、私にはあった。その臆測は、私自身の経験からきている。 私は母親と妹弟3人とのシングルマザー家庭に育った。そして私が20歳の冬、母親はがんで亡くなった。葬儀の手配、役所の手続き、銀行口座の整理、学費免除の申請……、悲嘆に暮れる暇もないほど、やるべき事が目の前に山積した。 生活が急変するなかで支えになったのは、幼いころから通っていたプロテスタント教会のコミュニティだった。特に中学生のころから世話になってきた牧師夫妻は、私たちきょうだいを親身になって支えてくれた。
夫妻の家で、私はしばしば夕食をごちそうになった。その食卓は私にとって、胸の中で膨らむ不安を言葉にし、ただ話を聞いてもらうことで、自分は独りではないと実感できる、かけがえのない「普通」の時間だった。 もちろんメイと私の置かれた状況は全く違うし、メイが本当にそれを求めていたのかもわからない。ただ、自分にできることは、それくらいしかなかった。「メイに何かしてあげたい」という意気込みが私にはあった。 けれど、そんな私の意気込みは、いつの間にか流れて消えていた。
私にとっても、妻にとっても、メイが週に一度うちに来ることは純粋な楽しみになっていたからだ。うれしい報告も、たまりにたまった愚痴も、冗談交じりに明るく語るメイと接していると、私も妻もただ楽しかった。 当時ブームになり始めていた漫画「鬼滅の刃」の存在も、流行語「ぴえん」や「JK(女子高校生)」の正しい使い方も、現役女子高校生のメイが私たち中年夫婦に教えてくれた。 メイは食卓で話しながら、時折こらえきれずに涙をこぼした。それでもじきに気を持ち直して笑顔を見せようとする姿に、こちらが励まされていた。
■高校卒業後の進路 父親が自宅に戻れないまま、メイは高校3年生になり、受験の年を迎えた。「助産師になる」という夢の実現に向け、まずは看護師の資格を取るための専門学校を目標にすえた。 Minamiこども教室で受験支援の中心を担ったのは、高校の化学教師を退職してボランティアに加わったタナカさんだった。皮肉のきいた冗談は多いが、子どもへの愛情にあふれたおじさんだ。 メイの苦手教科は化学と数学。高3レベルの理系科目を教えられるスタッフは限られ、タナカさんがつきっきりで課題をみた。