「最後に美空ひばりさんが歌うと、全部飛ばされてしまう」北島三郎が語る、紅白歌合戦の『美空ひばり』の“凄さ”
ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。
12月26日(木)の放送では、歌手の北島三郎が登場。1936年、北海道上磯郡知内町出身。高校生の頃、「NHKのど自慢」に出場したのをきっかけに歌手の道を志し、18歳のときに上京。流しの仕事をしながらデビューを目指し、作曲家・船村徹さんに師事。1962年にレコードデビュー。 その後は、『函館の女』に始まる「女シリーズ」、『兄弟仁義』などの「任侠シリーズ」など・数々のヒット曲を送り出し、「NHK紅白歌合戦」では史上初の50回の出場を達成。 歌手の道を志したきっかけの「NHKのど自慢」について振り返った。 北島:NHKの高校2年の時、「NHKのど自慢」に出た。鐘は「2つ」だった。歌い終わると、司会の宮田輝アナウンサーに「いい声だったよ」って、褒められたんですよね。宮田さんという方は、お話をすると自分で喋って、自分で返事するんですよ。「よかったよ」「よかったよね」って。この人(宮田輝アナウンサー)が、ここまで褒めてくれるんだ。俺、本当はやっぱり歌手になれるんじゃねえかと。 その後、北島は歌手を目指して上京。だが、そのスタートは、順風満帆ではなかったという。 北島:生活があるうちは、あんまり楽じゃなかった。上京してすぐに、新聞広告に歌手募集という欄を見つけたんです。僕は、どっかのステージに立たせて、歌わせてもらえるのと思って。クラブとか、当時のキャバレーですよね。そこで歌えるものと思って、(募集先に)訪ねて行ったんです。新聞広告を見てきたんですけれど、って言うと、「申し訳ない。もう決まっちゃったよ」って。帰ろうとしたら「せっかく来たんだから歌ちょっと聞かせてくれる?」というので、オルガンを弾きながら歌った。すると、その人が「結構、昔の歌も知ってるな」っていうんです。「結構知ってますよ、歌好きでしたから」っていうと、「わかった。君に決めたよ」と。いきなりこう言うんですよ。その人は、川田さんという方で。よくよく聞くと、歌うのはキャバレーでもクラブでもなく、「流し」だった。ガッカリですよね(笑)。でも、一か月分の月給をくれるっていうんです。1万円。 そこから、「流し」として、歌の仕事を始めた北島三郎。ある時、運命を変える客と、出会うことになる。 北島:ある時、林さんというお客さんが千円くれて、「なんでもいいから一曲聞かせてくれ」って言うんです。それで、歌った。すると林さんが、「明日さ、騙されたと思って、夕方5時に新橋の喫茶店にきなさい。ある人に会わせてやるから」と言う。「調子いいこと言ってるなぁ」と思ったけど、次の日、喫茶店に行ってみた。するとそこにいたのが、(のちに北島三郎の師匠となる作曲家の)船村徹さんでした。 その出会いをきっかけに、北島は演歌歌手として、デビューを果たす。北島に、次の世代への提言を伺った。 北島:人は、10年経って、一皮むける。20年経って、二皮むける。30年経ってやっと、「自然体」になれる。最初の10年は夢を追いかけて、夢中で走っている。少し慣れた20年目になる頃が、危ない。その気になって、スター気取りになって、大地に足がついていない。ワガママも言いたくなる。でも、それを越えると、人生を生き抜くために必要なことがわかる。やっと、自然体になれると、一番強い。歌い手も、自然体のほうが絶好調だと思う。 最後に、北島が先輩歌手である「美空ひばり」について語った。 北島:尊敬する先輩、いっぱいいます。その中でたった一人だけ、「やっぱりプロの世界はこうでなければいけない」と、教わったのが、(美空)ひばりさんだね。紅白で、何人も歌手が出てきて歌うけど、最後にひばりさんが歌うと、全部飛ばされてしまう(笑)。紅組のトリが、ひばりさんで、白組のトリが、俺の時、絶好調で歌いあげて満足していたら、俺のあとにひばりさんが大トリとして出てきて、俺が歌った歌が、どこかへすっ飛んでしまった(笑)その時、本当に悔しいんだけど、「プロはプロの中のプロ」でなければならないと思った。ただの「プロ」ではいけないんだ。 この番組は、radikoのタイムフリー機能で、放送1週間後まで聴くことができる。また、次回2025年1月1(水)は、新春スペシャルを12時から放送。慶應義塾大学・塾長の伊藤公平さんが登場する。