追悼。“天皇”と呼ばれた400勝投手・金田正一氏が走った「雨の後楽園」「監督が交代を告げるより先に」
ヤクルトの前身の国鉄、巨人でプレーした金田正一氏が亡くなった。巨人が発表したもの。86歳だった。通算400勝投手である。メジャーを含めてもサイ・ヤングの511勝、ウォルター・ジョンソンの417勝に次ぐ世界3位の記録。また4490個の通算奪三振記録もノーラン・ライアンの5714個に続く世界2位の記録である。同時に298敗の通算敗戦数、365試合の通算完投数、5526回2/3の通算イニング数、22078打者の通算対戦打者数、1808個の通算与四球は、いずれも日本最多記録。おそらく今後、誰にも破られることのない永遠の金字塔だろう。 金田氏は、愛知の享栄商を中退して1950年に国鉄スワローズに入団すると、1951年から14年連続20勝以上をマークした。1958年には31勝、1963年には30勝している。1965年からはB級10年選手制度を使って巨人に移籍、5年間プレーしV9に貢献した。タイトルは最多勝、最高防御率が3度、最多奪三振が10度、沢村賞も3度受賞している。 ドラフト寸評でお世話になっている元ヤクルトの名スカウト、片岡宏雄氏は、国鉄でプレーしていた1961、1962年の2年間、金田氏のブルペンでの専属キャッチャーを務めていたことがある。金田氏は、いい音をさせてボールを受ける片岡氏のキャッチング技術に惚れ込んだ。 「おまえはキャッチングだけは一流だなあと褒められ可愛がってもらった」 当時、金田氏はプロ12年目。 球種はストレートとカーブの2種類のみ。 「ストレートは全盛期には160キロは軽くあったと言われているが、当時は、もうそこまではなかった。でもカーブには本当に2階から落ちるというほどの落差があった」 阪神の吉田義男氏が金田氏のカーブ対策に落下地点まで、決して顔を上げないようにしたという落差のカーブ。184センチの身長に加え、一度上へ浮き上がってから縦に急激に落下してくる“魔球”だったという。 当初、ピッチング練習でも、サインがあったが、時折、それを無視して大きなカーブを突然、投げ込んできた。片岡氏が、そのキャッチにあたふたするとニカっと笑い、逆に難なくさばくと不満気な顔を浮かべた。片岡氏が、ノーサインでも捕球できることを確認すると、途中からノーサインになった。当時、レギュラーキャッチャーは、根来広光氏だったが、試合でもノーサインだったという。 「本当にノーサインでポンポンと投げてきた。でもカーブを投げるときは、腕の動きが違うのでリリースするところでわかったんだ」 チームでは“天皇”と呼ばれていた。 片岡氏が、コンビを組んだ、この2年間の成績は20勝16敗、防御率2.13、22勝17敗、防御率1.73である。 先発でない試合でもベンチに入り、中継ぎで数イニングを投げれば、勝ち星がつきそうなゲーム展開になると、片岡氏に声がかかり、ブルペンへ走った。 「よし!」 ウォーミングアップを終えるとマウンドへスタスタと歩き始めた。 当時の監督は、元立教大監督でプロ経験のなかった砂押邦信監督で、金田氏がマウンドへ行ってから交替を告げるという有様だったという。金田氏は1961年に25試合、1962年には18試合、中継ぎ登板している。 「“天皇”ですから(笑)。監督もコーチも白星を持っていかれるピッチャーも誰も文句言えません。負けず嫌いでね。自分が投げたいときに投げれるんです」