追悼。“天皇”と呼ばれた400勝投手・金田正一氏が走った「雨の後楽園」「監督が交代を告げるより先に」
片岡氏には忘れられない思い出がある。 「雨が降って試合が中止になると、当時は練習なんてない時代だったんだ。でも、金田さんだけは必ず練習をした。雨が降ると後楽園に呼び出されるんだ」 当時、後楽園球場は、巨人と国鉄が共に本拠地として使用していた。雨が降ると、巨人の選手だけが練習を許されていたらしいが、その巨人の練習中に”天皇”金田氏は、ドカドカと肩で風を切って入りこんだ。ずぶ濡れになりながらフェンス沿いを延々とランニングした。 「片岡。ピッチャーは走らなきゃいかん。オレが引退するときは走れなくなったときだ」 それが口癖だった。 そして、雨の後楽園練習の最後は、ブルペンではなくマウンドに上がってのピッチング練習である。 当時の巨人の川上哲治監督が、ずっと、その様子を見ていたという。 「金田さんは、それから2年後(1964年12月)にB級10年選手制度を使って巨人へ移籍するが、このときから移籍をアピールしたかったんじゃないかな。巨人ファンだったからね。川上さんは、その練習量を見て“巨人の選手に見習わせたい”と獲得を決めたそうだからね。もしかすると、雨の後楽園練習が、決め手になったのかも」 長嶋茂雄氏のデビュー戦で4打席連続三振を取った。それも憧れの巨人に対する気持ちの裏返しだったのかもしれない。 “雨の後楽園”で練習を終えると目黒にある金田氏行きつけの焼肉屋につれていってもらうのが日課だった。 「豪快に見えて、実は繊細で優しい人だった。それに常に肩、肘に気を使っていたね」 一番高い肉を注目し、真夏でもクーラーの風が左肩に当たらない席を選んだ。 「肉を一切れ食ったら、野菜を倍食え!」 コンディションにこだわり、栄養学などを研究し、のちにロッテ監督時代にコーチャーズボックスに入り披露した「かねやんダンス」で有名になった独自のストレッチを丹念に繰り返した。 ピッチング技術についても、ステップ、体の開き、リリースポイント、肘の位置などを細かくチェックしていた。特に肘の使い方にこだわり、「肘の位置を見ていてくれ」と、片岡氏に注文をつけ、そこをバロメーターにしていたという。 「巨人に移籍してからは、会う機会はなかったが、ロッテの監督になられてからドラフト会場で顔を合わせると、右手を大きくあげて“元気!”と声をかけてもらった。合掌!」 伝説の人、金田氏は、1988年に野球殿堂入り、その背番号「34」は巨人の永久欠番となっている。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)