上皇と美智子さまの「出会い」は「演出されたもの」だったのか…? 軽井沢のテニスコートで起きていたこと
楽勝だと思っていたら……
「だめだなあ、いったい何をなさっているんだ」 観客席で浜尾が声を上げると、数列前にいた中年女性が振り返って申し訳なさそうな表情でお辞儀をした。浜尾の隣で観戦していた最高裁長官の田中耕太郎(明仁皇太子の憲法の進講担当)が「対戦なさっている女性は、日清製粉の正田英三郎社長のお嬢さんで、美智子さん。お辞儀をなさったのは、お母さまだ」と教えた。明仁皇太子は後年、次のように振り返っている。 「ちょっとやってみたら、この人たちは下手だから簡単に勝てる、楽勝だなと思ったんですよ。始まってからも大して強くないと思いながら球を返していたんですけれど、ゲームが進んでくると意外に強くて接戦になったんです。それで真剣になってやりました」 皇太子ペアは第二セットであと一ゲーム取れば勝ちというところまでいきながら、美智子のロブ戦法にペースを乱され、ミスを連発。結局、5-7でセットを落とした。第三セットは1-6と散々な結果となり、セット数1-2で完敗してしまった。のちに明仁皇太子は「最後に1ゲーム取れば勝つことになっていた。その時に、次の組はもっと強い、その時は今のやり方ではいけないと思い、やり方を変えたのです。それが負けにつながった」と笑いながら語っている。 テニス仲間の織田は皇太子ペアの実力なら優勝の可能性があると思っていたので、予想外の結果に驚いた。二年前の春の関東学生選手権ダブルスで二位、同年秋の社会人も含むトーナメントで優勝、関東学生ランキング四位の美智子の実力を明仁皇太子も織田も知らなかった。 コートから戻って来た明仁皇太子はタオルで汗を拭きながら織田に言った。 「あんなに正確に粘り強く打ち返してくるのだから、かなわないよ。すごいね」 しかし、皇太子の表情には悔しさはなく、さばさばした様子だった。
出会いは「作られたもの」だったのか?
小泉信三も二女の妙とともにこの試合を見ていた。八月十日から妻・とみと妙を伴って軽井沢の万平ホテルに滞在していた。妙はとても落ち着いた雰囲気の美智子を見て「どちらかの若奥さまかと思った」という。スポーツマンの小泉はふだん「試合は終わりまでわからない」が持論だったが、第一セットを見終わると「これは、殿下がお勝ちになると決まった。友人を訪ねたいから帰る」とコートをあとにした。あとで皇太子ペアが負けたと知って驚いたという。 明仁皇太子は翌年、清宮からの誘いでテニストーナメントに出ることになったことを歌に詠んだ。 たまたまの出あひつくりし電話の声耳に残りて未だ新し この歌には「一年前の夏、妹により軽井沢会庭球部部内トーナメント出場についてのさそひに接せり。このトーナメントにて美智子と初めて会ふ」の詞書が付されていた。 明仁皇太子と美智子の婚約が明らかになったあと、このテニスコートでの運命の出会いがあまりにも出来すぎたロマンスなので、小泉らがあらかじめセッティングしたものだという憶測もあったが、そのような事実はない。相手が有力なお妃候補なら最後まで試合を見ているはずだ。小泉は美智子の祖父・正田貞一郎のことはよく知っていた。貞一郎が美智子の叔父の順四郎とともに訪ねてきたことも記憶していた。皇太子を負かした相手を聞いて「正田さんのお孫さんか」という程度の感想だった。小泉はこう言っている。 「正田嬢のプレエは終始沈着で堅実で、観衆はみな落ち着いた、品の好いお嬢さんだとほめた。しかし、後日この淑女が皇太子妃として選ばれようとは、皇太子殿下御自身を含め、当日何人も想像しなかったであろう」 美智子の母・富美子(ふみこ)はこの記念すべき試合を写真に残したかったが、あいにくカメラを持っていなかった。周囲を見回してみると、顔見知りの田中最高裁長官がカメラを持っていたので「美智子が皇太子さまと当りました。すみません、一枚撮っていただけませんか」と頼んだ。 田中は快く引き受け、試合中の明仁皇太子、美智子、ドイル少年を写した。田中は軽井沢の写真店に三枚ずつキャビネ判で焼き増しを頼み、富美子に進呈した。美智子は翌月のクラス会で「皇太子さまにテニスで勝った」と言って、同級生にこのときの写真をうれしそうに見せたという。これが歴史的写真になるとは富美子も田中も知るよしもなかった。
井上 亮(ジャーナリスト)