上皇と美智子さまの「出会い」は「演出されたもの」だったのか…? 軽井沢のテニスコートで起きていたこと
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。 【写真】皇室記者が現場で感じた、新天皇夫妻と上皇夫妻の「大きな違い」 この記事では、1957年、明仁皇太子と美智子さまがはじめて出会ったときの様子をくわしく紹介した部分を、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。
八月十九日の軽井沢会テニスコート
五月十八日、明仁皇太子は十二人の学友とともに熱海で一泊の同窓会に参加した。泊まり先は専売公社熱海会議所で、皆でザコ寝。翌日は白根海岸の釣り堀で釣りを楽しんだ。そのあとは東海道をバスで帰京した。旅行の会費は八百五十円で、皇太子も割り勘で支払った。六月二日には千葉県新浜の鴨場まで義宮と一緒に馬の遠乗りを楽しんだ。皇太子妃選考の喧騒からまさにひと息つくような時期だった。 しかし、世間はひと息つかせてくれない。同月八日の新聞で常盤松の東宮仮御所が七月中旬から改装工事に入ることが報じられたが、女性用の化粧室が新たに増築されることから「お妃を迎える準備?」と観測されている。宮内庁は「外人や女性を交えたパーティーや訪問がふえるので」と説明したが、真に受けるメディアはなかった。 八月になった。明仁皇太子は例年通り軽井沢でテニス三昧の夏を過ごしていた。十二日は軽井沢国際テニストーナメントに友人の織田和雄とダブルスを組んで出場した。一回戦は勝ったが、二回戦で慶應大庭球部ペアに敗れた。 再挑戦の場はすぐにめぐってきた。十八、十九日に開かれるABCDトーナメントだった。この大会は参加選手の腕前をAからDまで四段階に分けて、実力が拮抗するように運営側がダブルスのペアの組み合わせを決めていた。純粋にテニスを楽しもうという親睦大会だった。明仁皇太子に清宮から電話があり、テニスコーチの石井小一郎夫人から出てみないかという誘いがあるがどうか、ということだった。当初、皇太子は「クラブ員ではないので出ない」と答えたが、「ぜひに」と言われて出場することになった。 慶應大と成蹊大のテニス部員が裏方を務めた。試合の組み合わせも抽選で決めた。明仁皇太子は早稲田の学生だった石塚研二とペアを組むことになった。会場は軽井沢会のテニスコート。十八日の初日、皇太子ペアは一―三回戦を勝ち上がった。「翌日はこの組と当たります」と言われて、その試合を見学した。その対戦相手は正田美智子と十三歳のカナダ人少年ボビー・ドイルのペアだった。このとき明仁皇太子は初めて美智子を見た。 翌十九日の準々決勝で明仁皇太子ペアは美智子ペアと対戦した。誰もが皇太子ペアの楽勝と思った。一流のコーチの指導を十数年間受け、実力は一般のテニス愛好家から抜け出ている明仁皇太子と大学生のペアに対し、相手は若い女性と子供である。 聖心女子大のテニス部で一学年上だった松平多美子は美智子のテニスについて「一口にいって地味で堅実なテニス」と話す。鋭いウイニングショットはないが、パートナーに絶好の球が来るまで辛抱強くロブでつないでいく。「精神的な揺れが少ないのでピンチに強く、パートナーとしてこんなに信頼できる方はありませんでした」と松平は言う。 美智子のテニス仲間は皆、その粘り強いスタイルに感嘆する。同じく聖心の先輩の緒方貞子は「私は、大学時代の大半をテニスコートで過してしまいました。とくに夏休み中、まだ今ほど賑わっていなかった軽井沢では、「町」のコートを生活の中心とする若いテニス・マニアの仲間たちがおりました。その中で、ひときわ一途に練習に励まれたのが、当時聖心の後輩でいらした皇后様〔美智子〕でした。打っても打ってもボールを返してくる方。皇后様の忍耐強いテニスは、コートを走り回る足早の少女の面影とともに、今も目に浮んで参ります」と述べている。 試合は美智子のテニスそのものの展開になった。第一セットは6-4で皇太子ペアが取ったが、第二セットから形勢が変わった。美智子ペアは力強さはないものの、どんなボールも確実に拾って打ち返してきた。 観衆は百人ほどだった。試合を見ていた東宮侍従の浜尾実は後年「美智子さまは、コートの端から端へ、実によく走られた。そして、陛下〔明仁皇太子〕の打ち込まれた球を拾い、フワァ~、フワァ~と返してこられる。どんな球でもあまりに確実に返されるので、陛下もイライラされたのだろう、相手のコートに強く打ち込まれようとするのだが、全部ネットになってしまう」と回想している。 コートを走る美智子はふっくらした丸顔で少し太っていたが、浜尾は輝くばかりの健康美を持つ女性との印象を受けた。