大谷翔平、監督の目を盗み“サク超え連発”伝説…花巻東同級生が明かす「高校通算56本塁打」の本気を見た日「引っ張れば200本でも打てた」
投手・大谷をどう見ていたのか
それでは山根さんは「投手・大谷翔平」をどう見ていたのか。 「もしプロにいくなら投手で、とは言っていました。今もそうですけど、『打者・大谷』は完成されている感じがあります。ただ、『投手・大谷』は、まだ伸びそうな感じは当時からありました」 高校卒業までに160キロを出すことを目標に掲げていた大谷が熱心に取り組んでいたのが肉体改造だ。中でも、細身だった投手陣に課された「食トレ」は、想像を絶する量だ。山根さんは「練習より食べる方がきつかったです」と苦笑いで振り返る。
想像を絶する食トレの結果…
「どんぶりのご飯を朝4~5杯、お昼は大きい弁当が出てきて、練習前に卵かけご飯を1、2杯食べます。練習の合間に監督さんに呼ばれて余った弁当を食べ、夜はご飯7杯食べるという生活をずっとしていました」 トレーニングとの相乗効果もあり、投手陣の体重は3年間で劇的に変化。山根さんは65キロから72キロ、大谷に関しては、66キロから2年夏に76キロ、3年夏には86キロと20キロの増量に成功した。 ただ、大谷は身長が190センチを超えてもなお成長段階にあったため、骨の成長に筋肉が追いつかず、成長軟骨が折れる「骨端線損傷」に悩まされた。2年夏の甲子園では、左股関節の痛みを押して、帝京(東東京)との1回戦で2番手として登板。ほぼ上半身の力だけで150キロをマークも、ベストピッチにはほど遠く、初戦で姿を消した。骨折している状態なので、無理もない。2年秋は、野手のみでの出場を余儀なくされた。
身体能力だけで速い球を投げる投手
「高校の時だけを見ると、身体能力だけで速い球を投げる投手というイメージでした。どちらかと言えば、2、3番手の2人の投手で勝ってきたので、翔平が絶対的エースという訳ではないと、みんな思っていたんじゃないでしょうか」 2年秋は東北大会準決勝で光星学院(青森、現八戸学院光星)に8-9で逆転負け。当時、センバツの東北出場枠は「2」だったこともあり、2季連続甲子園は絶望的だと思われた。 しかし、光星学院が神宮大会で優勝して「神宮大会枠」で東北が3枠に。大谷や山根さんら、上級生数人で神社参りを続けた“御利益”もあり、翌年センバツに滑り込みで出場することができた。 「光星学院が神宮大会の準決勝に行った時に、神社で拝んで勝ったので、決勝の前にも『もう1回行くぞ』と言って、拝みに行ったら優勝しました(笑)。翔平の発案だったと思います」 この時の“神頼み”が通じたことが、甲子園での本塁打、そして最後の夏に投じた「あの1球」へとつながっていく。 <つづく>
(「甲子園の風」内田勝治 = 文)
【関連記事】
- <つづきを読む>大谷翔平は「書かずに勉強していた」花巻東の同級生・山根大幸が振り返る高校生活、その後の野球人生「引退を報告すると翔平からは…」
- 【写真】「こんな表情するんだ…」坊主頭姿で涙を見せる高校3年の大谷翔平、栗山監督との「運命の出会い」も…高校時代の写真を見る
- 【秘話】「プライド持てよ!」大谷翔平はなぜ“初めての日本代表”で一喝された?「今思えば、あの謙虚さが…」仲間たちが語る18歳大谷翔平の素顔
- 【大谷を倒せ】大谷翔平18歳がいた花巻東は“なぜ負けた?” 岩手のライバル校監督が明かす“仮想大谷の7日間”…選手の声「やってきたことは間違いじゃなかった」
- 【聖地巡礼】大谷翔平も菊池雄星も佐々木麟太郎も育った“ナゾの高校野球の町”「JR花巻駅」には何がある?「“消えた”レアな鉄道、閉店した百貨店…」