落合博満「クビになったら飲食店でもやろう」じつは“野心がなかった”プロ入り当時…なぜ3度も三冠王に?「歴史に名前を残す」オレ流の有言実行伝説
有言実行の2年連続三冠王「一番難しいのは…」
そうして落合は'85年、'86年と続けて三冠王を宣言した上で獲得し、「有言実行」が代名詞となる。 「25歳でプロ入りした私は、王(貞治)さんの868本塁打や張本(勲)さんの3085安打には追いつけない。だからこそ、三冠王を3回獲れば王さんの2回を抜き、自分の名前を歴史に残せると考えた」 落合は三冠王に強くこだわり、実際に手にする方法をこのように考える。 「3つのうち、一番難しいのは首位打者。ホームランも内野安打も1本だから、規定打席に達する選手全員に権利がある」 それでも当時の落合は、「ヒットだけ打てばいいなら、打率4割はクリアできる」と安打の量産には自信を持っていた。 また、打点は自分の前にいる打者の成績にも左右されるが、落合が在籍した8年間、ロッテのチーム打率は1位4回、2位2回。走者を置いて打席に立つケースが多く、チャンスは極めて多かった。 そして、「本塁打王は限られた選手しか狙えないから、候補となる数人をマークしておけばいい」というものの、落合自身は40本さえマークしたことがなかった。そこで、ファウルになってしまう打球をフェアゾーンに入れる打ち方を研究。その一方、妻・信子さんの「体重を増やせば打球は飛ぶのでは」という助言も実践した。 「三冠王を狙うという発想になったのは、やはり'82年に運よく獲っているから。それと、私がそれだけの成績を残せば、ロッテが優勝できると思っていた」 だから、若手投手がピンチに立たされればマウンドに足を運んで「何とか踏ん張れ。次の打席で必ず打つから」と励ました。 「あの頃のロッテは、本当にいいチームだった。初めて首位打者を獲った時から、私がタイトルを争っていると、村田兆治さんが投手陣に『落合の競争相手には絶対に打たせるな』って発破をかけてくれたり……。降板した投手も裏に引っ込まずに、ベンチで声を出していた。ずっとロッテでプレーして、優勝したいと考えていた」
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