《没後10年でついに…》高倉健さんの遺骨が里帰り 晩年に寄り添った養女は分骨を一時拒否、関係者の協力で一部がふるさと筑豊へ
老若男女に愛された高倉健さん(享年83)の死から、はや10年。このほど、長い年月を経て、ふるさとに彼の生きた証が帰ってきた。いまも健さんに思いを寄せる親族とファンの心情とともに、名優を巡る人間模様を詳報する。【前後編の前編】 【写真】健さんが好んだ「寒青」の2文字が刻まれた石碑。他、健さんの養女・小田貴月さん
没後10年の法要に親族、関係者が集結
かつて筑豊炭田の一角として隆盛した、福岡県北部に位置する中間市。市内には江戸時代に福岡・黒田藩の一行が参勤交代の近道として利用した街道がいまも名残をとどめる。その道中で地域の人々を見守り続けてきた由緒ある寺院にはこの日、朝早くから多くの映画関係者が集まっていた。 11月10日、この地に生まれた俳優・高倉健さん(本名・小田剛一、享年83)の没後10年の法要が営まれるにあたり、小田家の菩提寺である正覚寺に親族だけでなく、関係者までもが集結したのだ。しかし、そこには彼が晩年を共にした“美貌の養女”の姿はなかった──。 「(兄が亡くなって)10年が経ちますが、お参りしてくださるかたも年々増えているように思います。高倉健は私の兄だと思ってきましたけど、やっぱり『健さんは、みんなの健さん』なんだなと実感しております」 こう涙ぐみながら語ったのは、健さんの妹の森敏子さん(89才)。固い絆で結ばれた実の妹は、兄の優しさがいまも思い出されるという。 「平成元年に母が亡くなった後、私のことを心配して、兄はいつも電話をくれました。『何かあったら、お墓にお参りして、お母さんと話すんだぞ』と言ってくれていた。兄が亡くなってからのこの10年、毎日のようにお参りしています。 三回忌までは泣いてばかりでしたが、少しずつ笑顔で話すことができるようになりました。兄は『御仏様は見ている』とよく口にしていましたが、今日の様子を兄もきっと見てくれていると思います」(敏子さん)
遺骨の一部が遺族の元に
健さんと同郷で、彼の没後、親族や彼を長年、公私にわたって支えてきた「チーム高倉」など関係取材を続けてきたノンフィクション作家の森功さんが解説する。 「敏子さんをはじめご遺族は、健さんファンの人たちに、『お参りする場所はここにある』ということを伝えたい思いをずっと持っていました。さらに、健さんが亡くなって10年目のこのタイミングで、関係者に分骨されていた遺骨の一部が、新たにご遺族の元に戻ってきたのです」 遺骨が返却された経緯に触れる前に、まずは健さんの死後の出来事を振り返る。数々の映画に出演し、日本映画史に燦然と輝くスターとして愛された健さんが悪性リンパ種のために亡くなったのは、2014年11月。そのおよそ2か月後に、健さんの養女と突然名乗り出たのが33才年下の小田貴月さん(60才)だった。 「健さんは1959年に歌手の江利チエミさん(享年45)と結婚したものの、1971年に離婚。その後は、生涯独身を貫き、私生活を明かさない孤高の人として知られていました。晩年、健さんと生活を共にした彼女の存在を知っていたのはごく一部で、高倉事務所の幹部は後に『(貴月さんのことは)自分のかみさんにも言えなかった』と語っていたそうです」(映画関係者) 健さんの晩年を支えた貴月さんとの養子縁組は、健さん自身が「世話になった人に財産を残したい」と望んだとされる。実際、彼女は健さんの死後、個人事務所「高倉プロモーション」の代表に就任。健さんが残した40億円ともいわれる遺産を相続し、現在は健さんが出演した映画の版権管理などを手がけながら、彼との思い出を綴った書籍を3冊上梓している。
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