鉄張りの巨大戦艦を駆使して戦国の海に君臨した戦国最強の海賊大名【九鬼嘉隆】
「海賊衆」という呼び方がある。これは、いわゆる海の盗賊を指す言葉ではなく、生活の基盤を海上に置いた海辺の豪族を指す。毛利氏と組んで瀬戸内海を制圧した村上水軍や、本願寺と組んで織田信長に対抗した雑賀衆などが、この「海賊衆」として挙げられるが、伊勢・志摩を拠点とした九鬼水軍こそが、戦国最強の海賊衆(水軍)としてランクされよう。この九鬼水軍を最強にしたのが、九鬼嘉隆(くきよしたか)である。 嘉隆は、天文11年(1542)、伊勢国司・北畠氏に仕える海賊衆の1人、九鬼定隆(さだたか)の子として生まれた。九鬼氏は、元々紀州北牟婁郡(三重県尾鷲市)の漁村を地盤として発展し、後に鳥羽に進出して伊勢湾の入り口にある大王崎に波切城(なきりじょう)を築き本拠としてきた。この地域には、北畠氏に仕える海賊衆「志摩十三地頭」という集団があった。 生まれつき気が荒く、頭もよかった嘉隆は、どうしてもこうした集団に馴染めず、集団では浮いた形になった。その結果、嘉隆は「掟を破った」としてほかの地頭たちによって追放されてしまう。永禄年間前半(1558~70)のことであった。その永禄11年(1568)、長い牢人暮らしの末に出会った信長の家臣・滝川一益(たきがわかずます)の紹介で信長に仕えるようになった嘉隆は、一益から「鉄砲」という新しい武器を教えられた。この鉄砲を駆使して水軍で戦うことを思いつき、信長による北畠攻略戦に参戦した嘉隆は、自分を追いやった「十三地頭」を散々に破った。 天正2年(1574)、信長は伊勢・長島の一向一揆を攻撃。嘉隆も水軍の長として加わった。2年後の天正4年、石山本願寺と結んだ毛利氏は瀬戸内海を治める村上水軍600隻と戦った。しかし圧倒的な火力と戦闘能力に嘉隆は完敗する。 この完敗を「苦い教え」として嘉隆は軍船に工夫を凝らした。その結果、船体を鉄板で装甲させ、大砲3門、無数の鉄砲で装備した全長23㍍、幅12㍍という巨大戦艦を造り上げた。6隻の巨大戦艦には合計5千人が乗り込み、天正6年(1574)の再戦(第2次木津川口の戦い)で嘉隆の九鬼水軍は圧勝する。志摩の平定を成し遂げた信長は、嘉隆に伊勢・志摩のうち3万5千石を与えた。牢人が大名に出世した瞬間であった。 「本能寺の変」を経て、嘉隆は豊臣秀吉の臣下となった。朝鮮出兵にも嘉隆は軍船「日本丸」とともに参戦した。こうして戦国時代の海賊衆の頂点に上り詰めた嘉隆と九鬼水軍だったが、秀吉没後の関ヶ原合戦には、家督を譲った嫡男・守隆(もりたか)が東軍・徳川家康陣営に属したのに対して、嘉隆は石田三成(いしだみつなり)の西軍に属した。合理主義者の嘉隆は、どちらが勝っても九鬼水軍は残る、という道を選んだのだった。合戦は東軍の勝利。息子の守隆が必死の助命嘆願をした結果、家康は認めたのだが、それを知らないまま、嘉隆は自刃して果てていた。58歳であった。
江宮 隆之