アインシュタインと原爆、呪いを背負った天才の矛盾、本当に「ほかに方法はなかった」のか
なぜマンハッタン計画に参加しなかったのか
委員会に与えられた資金はわずか6000ドルだったため、アインシュタインはルーズベルトに手紙を出し続けた。手紙の大部分を書いたのはシラードだ。ある手紙では、もし十分な資金が得られなければ、核に関する重要な発見をシラードが発表すると警告すらしている。 こうして、アインシュタインはマンハッタン計画の火付け役となった。ただし、「実際の関与はごくわずかでした」とケリー氏は述べている。アインシュタインは人種差別、資本主義、戦争を公然と批判し、この率直な科学者に関するFBIのファイルは最終的に1800ページを超えた。 「アインシュタイン博士の急進的な言動を考えると、機密事項に関わらせることは推奨できない」とFBIは書いている。結局、アインシュタインがマンハッタン計画の参加資格を得ることはなかった。 それでも、アインシュタインの名前は自身の最大の発見から生まれた兵器と呪いのように結び付けられている。 広島に原子爆弾が投下されたとき、アインシュタインはそのニュースに打ちのめされた。そして1946年、アインシュタインの有名な方程式が書き込まれたキノコ雲とともに彼の似顔絵を描いたイラストが米「TIME」誌の表紙を飾り、さらなる屈辱を味わった。
「ほかに方法がありませんでした」
アインシュタインはその後、核拡散の危険性を世界に警告し続け、必死で自身の責任を理解しようと努めた。 「彼は(原子爆弾の)父です」とビーザー氏は言う。同氏は、広島と長崎に原子爆弾を投下した両方の航空機に搭乗していた唯一の米国軍人の孫だ。 ビーザー氏は物語の力を借りて、核兵器の影響について人々に伝えている。例えば、ビーザー氏は長崎の被爆者とともに、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を訪問したことがある。この長崎の被爆者は、数十万人を殺傷した原子爆弾と、別のおぞましい惨事であるホロコーストとの関連性に驚いたという。 アインシュタインは1952年、日本の雑誌「改造」の取材を受け、「もしこれらの実験が成功すれば、全人類に恐ろしい危険がもたらされることを私はよくわかっていました」と、原子爆弾の開発について語っている。「しかし、ほかに方法がありませんでした」 ビーザー氏から見れば、アインシュタインのジレンマは人間の矛盾をよく表している。「原子の分裂はすべてを変えました。私たち人間の考え方を除いて」
文=Erin Blakemore/訳=米井香織