「みんなで手をあげるやつ、今日はやめましょうか」星野源の“提言”にSNS上で賛否が分かれるワケ
日本人が馴染みやすい盛り上がり方が「手をあげる」なのではないか
それはさておき、手を前後に振る動きが、自由ではないものの象徴として標的になってしまった格好です。確かに、あの光景は筆者も少し気味悪く感じます。なかには無表情で機械的に腕を動かしているだけの人も見かけるからです。心の底から楽しいという感情が爆発しているようには見えない。 だからといって抑圧的な雰囲気もありません。いやいややらされているわけでもなさそうだし、むしろ自然発生的に起こっているようにも見える。 だとすると、あれは日本人にとって馴染みやすい盛り上がり方なのではないかと思うのですね。見ず知らずの集団なのに統制が取れてしまう不思議なムーブ。
星野源の呼びかけとの“ズレ”
筆者はそこに、星野源の呼びかけとのズレを見ます。星野の言う目に見えるわかりやすい形での感情の発露とは、じつは日本人にとってきゅうくつな方法なのではないかと思うからです。 そもそも、パーにした手を前後左右に動かすことが何を意味するのか、きっと誰にも説明できないでしょう。その動き自体に、特定のメッセージは込められていないのです。しかし、その無意味な動作をすること自体が目的となり、ミュージシャンにパワーを与えているかのごとき空気を醸し出している。 そうした状況に参画することにカタルシスを見出すのが日本人の特性なのではないかと思うのですね。
「自由に」という要求が、そもそも自由ではない?
こうした日本人による不可思議な集団行動を論じたのが、フランスの思想家、記号学者のロラン・バルト(1915-1980)です。1960年代の全学連によるデモを、このように評していました。 <全学連の暴力は暴力それ自身の調整に先行しない。調整と同時に発生する。全学連の暴力は、無媒介に表徴なのである。なにものをも(憎悪をも、屈辱をも、倫理的な理念をも)そとに表現しない。それだけにいっそう確実に、他動詞的な目的(官庁の襲撃と占拠、鉄条網への突入と撃破)のなかに、その暴力は消滅させられてしまう。>(『表徴の帝国』 ロラン・バルト 訳宗左近 ちくま学芸文庫 p.165) <(一人一人の動作は補いあっている。だが一人一人は助けあうことをしない)。そして、表徴の極端な大胆さのゆきつくところ、戦う学生たちによってリズムを与えられて叫ばれるスローガンの告げるものは、(何々のために、または何々に反対して、われわれは闘っているのか、という)行動の告発対象や理由にあるのではなくて(中略)ただ単にその行動それ自体(《全学連は闘うぞ!》)なのであって、したがってその行動は、もはや言語によって蔽われたり導かれたり正当化されたり無罪証明されたりはしない。>(同 p.168) つまり、ひたすらに手を前後に動かすオーディエンスとは、バルトが全学連のデモに見た、<ただ単にその行動それ自体>を目的とする集団そのものなのですね。 当然、デモもライブも、その種の行動を強要されてやっているわけではなく、日本人が集まるとそうなってしまう何かが発生する。 この抗いがたい力を、“自由ではない”と切り捨てることにはかなりの抵抗を感じます。 今回、星野源は多様な楽しみ方があってしかるべきだとのメッセージを込めて、手を前後に動かすことをやめ、「自由」に動くことを要求しました。しかし、それがスムーズな「自由」であったのかどうかは議論のわかれるところでしょう。 いずれにせよ、筆者はロボットのように手を前後させる邦楽ロックフェスのメカニズムの方に興味がわくのです。 文/石黒隆之 【石黒隆之】 音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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