【霞む最終処分】(49)第9部 高レベル放射性廃棄物 玄海町(上) 原発の町示した矜持 「適地」選定の呼び水に
佐賀県玄海町の九州電力玄海原発に続く国道204号は朝夕、作業員を乗せたバスや車が絶え間なく往来する。沿道には作業員が定宿とする旅館やホテルが10軒ほど立ち並んでいる。三方を玄界灘に囲まれた岬「値賀崎(ちかざき)」にそびえる原子炉建屋から生み出される電気は、九州地方の人々の営みを支え続けてきた。 玄海町は国の原子力政策の一翼を担い、半世紀にわたり原発と共存してきた。町長・脇山伸太郎は5月10日、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた第1段階に当たる文献調査の受諾を表明した。文献調査はこれまでに北海道の寿都町と神恵内村で実施されたが、原発が立地する自治体としては初めての決断だった。 「調査に伴う交付金が目的ではない。最終処分場の適地が見つかるための呼び水になればありがたい」。受諾表明後の記者会見で、脇山は国の原子力政策に長年貢献してきた町の立場に触れた上で、受け入れに込めた思いを語った。
◇ ◇ 町の人口は4900人ほど。玄界灘の豊かな水産資源を生かした漁業、ハウスミカンなどの農業が基幹産業だ。国は1965(昭和40)年、全国で原発建設を進めるに当たり、立地候補地の一つとして玄海町を選んだ。町議会は新たな産業の創出に向け、原発誘致を決議。1975年10月、九州で初となる玄海原発1号機が営業運転を開始した。以来、経済発展に伴い増え続ける電力需要に符合するように、最大で4基(出力計347万8千キロワット)が稼働した。 2011(平成23)年3月の東京電力福島第1原発事故の発生後、1、2号機は老朽化に伴い廃炉が決まり、現在は3、4号機の2基(出力計236万キロワット)が運転している。構内では社員や協力会社の作業員合わせて約3500人が働く。 町は全国で初めてプルサーマル発電を受け入れ、原発事故発生後には当時の町長・岸本英雄が他の立地自治体に先駆けて再稼働を容認した。原子力政策への協力を惜しまず、原発と共に発展してきた町には「日本のエネルギーを支えてきた」(町関係者)との矜持(きょうじ)が根付く。